ニザームルムルクとの逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/27 09:46 UTC 版)
「ハサン・サッバーフ」の記事における「ニザームルムルクとの逸話」の解説
イルハン朝後期の歴史家ムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』などに伝えるところによると、かつてハサン・サッバーフはセルジューク朝の第2代君主アルプ・アルスラーンの宮廷に出仕していたが、時の宰相(ワズィール)ニザームルムルクはスンナ派の庇護者であり、狂信的なシーア派の信徒であったハサンはこれに激しい敵愾心を抱いていたという。ある日アルプ・アルスラーンは国土の総支出について報告書を提出するよう命じた。ニザームルムルクは1年を要する旨応えたが、ハサンは40日で完了すると応えた。ニザームルムルクはハサンの言う日数では不可能な事だと相手にしなかったが、アルプ・アルスラーンによる許可を受けてハサンは書記たちを動員し、40日後に良好な報告書を完成させてしまった。動揺したニザームルムルクは密かに妨害工作を行い、アルプ・アルスラーンの御前での報告の日に完成した提出書類をわざと錯簡させた。このためハサンはアルプ・アルスラーンの御前での報告の時に、書類のページがぐちゃぐちゃに入り乱れている事に気付き、スルタンに口頭での発表を促されたが答える事ができなかった。すかさずニザームル・ムルクは「学識ある者が完成には1年を要すべき帳簿を、無学の者が40日で完成しようとなると、かくのごとき結果になるのです」と追打ちをかけた。面目を丸潰れにされたハサンは宮廷を逃れ、過激なニザール派信仰の頭目になった。後年ハサン・サッバーフの指示でフィダーイー(英語版)たちが要人暗殺を行うようになった時、その最初の犠牲者はニザームルムルクであったといい上述のニザール派文書中の暗殺達成リストの最上段にニザームルムルクの名前が書かれていたと伝えられる。 また、他のイラン周辺でよく知られた伝説では、ニザームルムルクと数学者のウマル・ハイヤーム、ハサン・サッバーフは若い時にニーシャープールにおいて偉大なる学者イマーム・ムワッファクのもとで互いに勉学に勤しんでいたというものがある。それぞれが後年ニザームルムルクはセルジューク朝のワズィールとなって国政の最高権力者になり、ウマル・ハイヤームは天文学・数学を極めて自然科学研究の第一人者となり、ハサン・サッバーフは暗殺教団の頭目となり暗殺と恐怖を蔓延させ異端・外道の頂点に立った、というものである。しかし、没年から考えてウマル・ハイヤーム(1048年 - 1131年)とハサン・サッバーフ(? - 1124年)は近い世代と考えられるがニザームルムルク(1017年 - 1092年)はウマル・ハイヤームと比べても親子以上に年齢が離れているため、全く根拠のないただの伝説とみられる。
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