ニザン事件・再評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 17:19 UTC 版)
「ポール・ニザン」の記事における「ニザン事件・再評価」の解説
ニザンは離党について妻アンリエットへの手紙に、共産主義の理念に反する「党のリアルポリティクスは支持できない」と書いていたが、ニザンの突然の離党は党内のみならず多くの左派知識人から批判され、トレーズ書記長は「裏切り(trahison)」、指導部のジョルジュ・コニオ(フランス語版)は「背教(apostasie)」と非難し、サルトルにすら「衝動的な行為(coup de tête)」とされ、長い付き合いのあったロシア生まれの英国の作家・ジャーナリストのアレクザンダー・ワース(フランス語版)には「愚行(connerie)」と言われた。 さらに戦後にこの問題が再燃し、ルフェーヴルが1946年刊行の『実存主義』で、アラゴンが1947年4月の『レットル・フランセーズ』紙、『リュマニテ』紙、1949年刊行の小説『レ・コミュニスト』でそれぞれニザンを批判した。『レ・コミュニスト』ではニザンになぞらえて党の裏切り者パトリス・オルフィラ(Patrice Orfilat)を描いた。これに対してサルトルは、『レ・タン・モデルヌ』にニザンを支持するモーリアック、カミュ、ポーラン、ミシェル・レリス、ボーヴォワール、メルロー=ポンティ、ブルトン、ロジェ・カイヨワら知識人26人の請願書を掲載し、共産党にニザンを批判する根拠を提示するよう求めた。共産党は明確な根拠を示すことができず、ルフェーヴルは、『実存主義』は「スターリン主義」の作品であると釈明し、アラゴンは『レ・コミュニスト』の1966年の再刊の際に「パトリス・オルフィラ」に関する部分を削除した。 だが、作家としてのニザンが再評価されるようになったのは、没後20年を経て1960年にサルトルの序文が付された『アデン アラビア』が再版されたときのことである。これ以後、彼の他の作品も再版され、雑誌・新聞に掲載された記事や書簡も『社会主義の知識人ポール・ニザン - 記事・書簡 1926-1940』として1967年に刊行され(新版 1979年)、1968年の五月革命の学生運動では反逆精神の体現者として学生たちに敬愛された。 ニザンの著書が邦訳されたのも、没後25年以上経った1966年以降である(著書参照)。
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