ニザン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:34 UTC 版)
1939年8月の独ソ不可侵条約締結後の共産党内の混乱において、党を批判して離党したニザン(1940年5月23日、戦死)を、書記長トレーズはかねてから裏切り者と非難していたが、戦後、この問題が再燃し、哲学者アンリ・ルフェーヴルが1946年刊行の『実存主義』で、アラゴンが1947年4月の『レットル・フランセーズ』紙、『リュマニテ』紙、1949年刊行の小説『レ・コミュニスト』でそれぞれニザンを批判した。これに対して、ジャン=ポール・サルトルは、『レ・タン・モデルヌ』にニザンを支持するモーリアック、カミュ、レスキュール、ポーラン、レリス、ボーヴォワール、メルロー=ポンティ、ブルトン、カイヨワら知識人26人の請願書を掲載し、共産党にニザン批判の根拠を提示するよう求めた。共産党は明確な根拠を示すことができず、ルフェーヴルは、『実存主義』は「スターリン主義の」作品であると釈明、アラゴンは『レ・コミュニスト』の再刊の際に該当する部分を削除した。
※この「ニザン事件」の解説は、「ルイ・アラゴン」の解説の一部です。
「ニザン事件」を含む「ルイ・アラゴン」の記事については、「ルイ・アラゴン」の概要を参照ください。
- ニザン事件のページへのリンク