数寄者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 19:42 UTC 版)
明治中期頃から茶道をたしなみ、明治39年(1906年)には小田原市の板橋に別邸掃雲台を造営し数多くの茶席を建てた。このことが後に近代茶人らが小田原・箱根へ集まる初めとなっている。近代小田原三茶人の1人としても知られる。 趣味の茶器収集も有名であった。「鈍翁」の号は、彼が収集した茶器の1つ「鈍太郎」(表千家6世家元・原叟宗左の製作)に由来する。 佐竹本三十六歌仙絵巻や西本願寺本三十六人家集の切断に関わる中心人物であった。切断は彼の自邸で行われるなど便宜を図っており、その評価は分かれるところである。 弟で実業家の益田英作も野々村仁清作の色絵金銀菱文茶碗(重要文化財)などに代表される収集家である。また、共に箱根強羅の別荘地開発に深く関わった。大正15年(1926年)には慶應義塾大学医学部に寄附を行い、食養研究所が設立された。
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