九軌時代
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1908年(明治41年)12月、松方正義の三男で枩蔵の義兄にあたる松方幸次郎を初代社長として北九州に九州電気軌道(九軌)が設立された。枩蔵は1911年(明治44年)までに同社の支配人となっているのが確認できる。社長の下には松方幸次郎の代理人久保正助が専務取締役としていたが、1913年(大正2年)12月に退任し、入れ替わりで枩蔵が取締役に就任した。1920年(大正9年)6月には専務取締役に昇格している。 九州での事業が軌道に乗ると枩蔵の暮らしは派手になり、大阪空堀の本邸では妾2人を住まわせ、さらに洋館の別館を建てて帝国ホテルのコックを引き抜き来客にフランス料理をふるまっていたという。また自宅で大規模な茶会を催し、さらには東京国立博物館を借りて自慢の美術品コレクションの展覧会を開くなど、数寄者としても有名であった。枩蔵が骨董収集に熱心だった理由のひとつには、養父の重太郎が全財産を失くした際に手放した美術品の数々を買い戻したいという気持ちがあったからという。 義兄松方幸次郎は経営する川崎造船所が昭和金融恐慌の影響で破綻してしまい、その後独自の新事業を立ち上げるとの理由で設立以来務めてきた九州電気軌道社長を辞任した。これを受けて専務の枩蔵が社長に昇格し、1930年(昭和5年)6月27日付で九州電気軌道第2代社長となった。 枩蔵が経営する九州電気軌道は、当時は鉄道事業のほか電気供給事業も営む電力会社でもあった。そして同社は、北九州工業地帯や筑豊の諸炭鉱への電力供給をめぐり、九州有数の電力会社九州水力電気(九水)と対立していた。この九州水力電気は、1928年(昭和3年)に筑豊有数の炭鉱家麻生太吉が社長に就任すると九州電気軌道の経営権掌握を目指すようになる。株式買収の目標とされたのが、松方に代わって100万株(資本金5,000万円)のうち約35万株を抱える大株主となっていた枩蔵であり、取締役の大田黒重五郎が接触し、枩蔵から株式譲り受けの承諾を得た。1929年(昭和4年)8月、九州水力電気の重役会は大田黒に枩蔵との交渉を一任することを決定。その後売買手続きを進め、1930年8月、九州水力電気は枩蔵からの九州電気軌道株式約35万株の買収に成功した。枩蔵にはその対価として九州水力電気の6分利社債2,500万円が交付されている。 株式を手放した枩蔵は、1930年10月8日付で九州電気軌道社長を辞任。枩蔵に代わって大田黒が第3代社長となり、その下に村上巧児が専務に就任し、さらに麻生太吉も取締役となって九州水力電気が九州電気軌道の経営を掌握した。
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