ウィーン大管区指導者とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ウィーン大管区指導者の意味・解説 

ウィーン大管区指導者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 08:05 UTC 版)

バルドゥール・フォン・シーラッハ」の記事における「ウィーン大管区指導者」の解説

1940年8月8日に、シーラッハは正式にウィーン総督大管区指導者Gauleiter)に任命された。シーラッハは、この時すでに33歳になっていた。「若者若者によって指導される」という彼が定めたユーゲント原則の下、全国青少年指導者ユーゲント指導者職を27歳アルトゥール・アクスマン譲った。ただしシーラッハは「ユーゲント教育のためのナチ党全国指導者」に就任してユーゲントへの一定の影響力残した。 彼はバルハウス広場ドイツ語版)の宮殿からウィーン総督大管区指導者執務行った。かつてウィーン会議が行われた部屋を自らの執務室にしている。彼は戦時でもウィーン芸術の都として存続させよう努力した名だたる芸術家次々とウィーン招きオペラ演劇の上演を振興した。しかし芸術展にナチスが「退廃芸術」に指定していた作品展示させたり、ロシア人チャイコフスキーの曲の演奏許可したり、同じくロシア人チェーホフイギリス人シェークスピア作品の上演を許可するなどして他のナチ党幹部から反発買った1942年には、イタリア・スペイン・フラマン・ワロン・デンマーク・オランダ・フランス・ノルウェー・フィンランド・ブルガリア・ルーマニア・スロバキア・ハンガリーなどドイツ友好国衛星国占領地などの代表団招いてヨーロッパ青少年会議」をウィーン開催した。ここで「ヨーロッパユーゲント連盟」の設立決議した。この会議も他のナチ党指導者から反発を買う。ゲッベルス日記上で兵士前線戦っているというのに、ウィーンでは会議踊っている」と批判している。 ウィーンでは同市のゲシュタポ司令官フランツ・ヨーゼフ・フーバー中心にユダヤ人ポーランド移送が行われていた。大管区指導者として彼はそれを容認していたことに責任を負う1941年10月時点ウィーンには5万1000人のユダヤ人がいたが、1942年10月半ばまで続く移送ユダヤ人の数は8,000人足らずにまで減らされたという。 後任青少年全国指導者アルトゥール・アクスマンヒトラーユーゲント軍事化して戦火巻き込むようになった。これはヒトラーユーゲント大事に育ててきたシーラッハにとって我慢ならぬ事態であった。シーラッハはヒトラーユーゲント戦時体制導入に大反対の立場だった。 1944年9月19日アメリカ軍による最初ウィーン大空襲があった。その後空襲続き美しかったウィーンの街はすっかり荒廃してしまった。シーラッハはウィーン無防備都市宣言許可ヒトラーから得ようとしたが、ヒトラー却下されている。彼は妻と子供たちをバイエルン州別荘疎開させた。 ソ連軍接近により、シーラッハ自身1945年4月6日ウィーンから逃れている。

※この「ウィーン大管区指導者」の解説は、「バルドゥール・フォン・シーラッハ」の解説の一部です。
「ウィーン大管区指導者」を含む「バルドゥール・フォン・シーラッハ」の記事については、「バルドゥール・フォン・シーラッハ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ウィーン大管区指導者」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ウィーン大管区指導者」の関連用語

ウィーン大管区指導者のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ウィーン大管区指導者のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのバルドゥール・フォン・シーラッハ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS