ウィーン学団とヴィトゲンシュタイン
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「モーリッツ・シュリック」の記事における「ウィーン学団とヴィトゲンシュタイン」の解説
ロストックおよびキールでの初期の職務の後、1922年にシュリックは、ルートヴィヒ・ボルツマンやエルンスト・マッハがかつて行っていたウィーン大学の自然哲学の講義を受け持つことになった。シュリックは哲学や科学の分野で才能のある人を系統だてるうえで特別な成功を並べた。シュリックは、ウィーンにやってきた際、毎週木曜日に化学部の学部舎で定期的な会合を開いて科学における哲学的な話題について議論している科学者と哲学者の集団のリーダーになるよう請われた。その集団の初期の成員には数学者のハンス・ハーンがいて、1・2年のうちにルドルフ・カルナップ、ハーバート・ファイグル、クルト・ゲーデル、オットー・ノイラート、フリードリヒ・ヴァイスマンなどが参加した。彼らは初めエルンスト・マッハ協会と自称していたが、その後ずっとウィーン学団として知られている。1925年から1926年には、彼らはその頃のゴットロープ・フレーゲ、バートランド・ラッセル、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインらによる数学基礎論の研究について議論した。ヴィトゲンシュタインの著書『論理哲学論考』は簡潔で、宝石のように輝いている著書で、他の同種の著書の中でも特に象徴主義の理論と「絵画」つまり言語学の「モデル」理論を発展させた。シュリックとウィーン学団はこの本の研究に少なからぬ時間を費やしており、この本がもはや彼らの議論の主要な関心事でなくなってもこの本は議論で言及され続けた。やがてヴィトゲンシュタインもシュリックやウィーン学団の成員と会って『論考』や他の考えについて議論することを承知したが、彼は後に訪問者を共感している対談者にとどめておくことが必要だと気付いた。シュリックの影響を通じてヴィトゲンシュタインは鼓舞され、哲学の分野から離れて10年ほどたって哲学の分野に戻ってくることになった。それにもかかわらず、シュリックとヴァイスマンのヴィトゲンシュタインを交えた議論は、ヴィトゲンシュタインが未発表のアイディア (a charge of dubious merit) がカルナップの評論で許可なく使われていると感じるまでしか続かなかった。しかし彼はウィーン学団の他の成員とは会わなくなったのちもシュリックとは書簡によって議論を続けた。
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