すうがく‐きそろん【数学基礎論】
数学基礎論
数学基礎論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/14 06:33 UTC 版)
ゲーデルによって、1931年、算術以上の数学的内容をもった形式的体系がもし無矛盾ならば、その無矛盾性の証明はその体系の中で形式化されうるようなしかたによっては証明できない(不完全性定理)ことが示され、ヒルベルト・プログラムの遂行は至難なことがわかった。その後、有限の立場を発展させることによって、1936年ゲンツェンが算術(純粋数論)の無矛盾性を証明した。本質的に算術を超える内容をもつ実数論ないしは解析学となると、不可避的に集合概念を含むためその無矛盾性の証明は極度に困難である。竹内は、1953年にLKを拡張して高階の述語論理をゲンツェン・タイプで形式化(GLCと呼ばれる)し、GLCに対してもゲンツェンの基本定理と同様な定理が成り立つという予想(竹内の基本予想(英語版)と呼ばれる)を立て、基本予想が有限的構成的しかたで証明できれば、解析学の無矛盾性は一挙に解決されることを示した。 その後、基本予想の部分的解決を重ねるとともに、その補助手段として構成的順序数の一種であるordinal diagramなる概念を導入、その理論の発展と整備補強に努め、広範な内容をもつ解析学の部分体系の無矛盾性を証明した。
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数学基礎論
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著書『連続体論』(The Continuum) において、ワイルはバートランド・ラッセルの型理論を用いて非可述的な論理を構築した。彼は古典的な代数学のほとんどを、排中律や背理法、ゲオルク・カントールの無限集合を用いずに構築することに成功した。ワイルの思想はこの頃、ドイツのロマン主義者・主観的観念論者であったヨハン・ゴットリープ・フィヒテの急進的な構造主義の影響を受けている。 『連続体論』を発表した後、ワイルは自身の立場をブラウワーの唱える直観主義に移した。「連続体」を構成する点は、離散的な実体として存在する。ワイルは、単に点の集まりでないものとしての連続体を望んだ。彼は自身とブラウワーのために、そのことを述べた論文「我々は革命である」(We are the revolution.) を発表した。この論文はブラウワー自身の仕事よりはるかに広い影響を与え、直観主義の見方を広めた。 ジョージ・ポーヤとワイルは、1918年2月9日にチューリッヒで開かれた数学者会議において、数学の今後の方向性についての賭けを行った。ワイルは今後20年の間に、数学は実数や集合、可算性の概念の曖昧さを認識し、実数の最小上界性の真偽について問うのは、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの自然哲学の基本的な主張の真偽を問うのと同程度に曖昧であることを認識することになるだろうと予想し、そのような疑問に対する答えは検証不可能であり、体験することができず、したがって無意味であるとした。 しかしながら、数年のうちに、ワイルはブラウワーの直観主義が、批判者が言うように、あまりにも多くの制約を数学に与えると考えるようになった。この危機に関する論文は、ワイルの形式主義の師であったヒルベルトの思想とは相容れないものであったが、1920年代になると、部分的ながら自身の立場をヒルベルトの思想と調和させるようになった。 1928年頃からワイルは、数学的直観主義はエトムント・フッサールの現象学的哲学に対する自身の情熱とは相容れないと考えるようになった。晩年、彼は数学を「記号的構造物」と考える立場を取るようになり、ヒルベルトやエルンスト・カッシーラーの思想に近づいた。ただし、これについては多くを記していない。
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