ウィーン大学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:51 UTC 版)
「リーゼ・マイトナー」の記事における「ウィーン大学時代」の解説
23歳でようやく大学生になることができたマイトナーは、初年度から多くの講義を選択し、勉強に明け暮れる日々を過ごした。おもに数学と物理の講義に出席していたが、マイトナーの興味は次第に物理学へと傾いていった。 当時のウィーン大学の物理学研究所は、施設は粗末なものだったが、研究・教育の質は高かった。とりわけマイトナーを魅了したのは、ルートヴィッヒ・ボルツマンの講義であった。1902年にウィーン大学に赴任したボルツマンの講義は学生に非常に人気があり、マイトナーも欠かさず出席した。マイトナーは後年になってからのインタビューなどにおいても、たびたびこの時のボルツマンの熱意にあふれる講義を話題にし、賞賛している。 1906年、マイトナーは博士号の試験に合格。ウィーン大学で4人目の女性博士となった(物理では2人目)。 こうして博士となったマイトナーは、放射能の分野で活躍していたステファン・マイヤーと共に、α線とβ線の金属への吸収に関する論文などを発表した。しかし自らの先行きには不安を感じていた。敬愛していたボルツマンは1906年に死去していた。また、放射能の分野ですでに業績を上げていたマリ・キュリーに助手として自分を雇ってくれるよう願ったが、空席がないと断られた。かといってウィーンに残っても、研究者としての仕事は見つかりそうになかった。 そこでマイトナーは、ベルリンへ行くことを決意した。ベルリンは当時のヨーロッパの科学における中心的な場所であったことや、ベルリン大学のマックス・プランクの名を知っており、1度だけだが会ったことがあることなどが、ベルリンを選んだ理由だった。こうしてマイトナーは、1907年秋、「ほんの何学期かの間ベルリンで学ぶため」ウィーンを離れた。
※この「ウィーン大学時代」の解説は、「リーゼ・マイトナー」の解説の一部です。
「ウィーン大学時代」を含む「リーゼ・マイトナー」の記事については、「リーゼ・マイトナー」の概要を参照ください。
- ウィーン大学時代のページへのリンク