ウィーン市長ルエーガーとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 17:41 UTC 版)
「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「ウィーン市長ルエーガーとの対立」の解説
即位当初のフランツ・ヨーゼフはユダヤ人の解放を拒んでいたが、1867年以降はユダヤ人の臣民としての身分を尊重するようになった。反ユダヤ主義の社会的風潮の中で、大きな資本を握るユダヤ人の権利の庇護者となったのである。1914年にユダヤ人難民をウィーンから放逐するとキリスト教社会党が政府を脅したのに対し、フランツ・ヨーゼフは追われたユダヤ人にシェーンブルン宮殿を開放するという脅しでこれに応じたと伝えられる。 1895年、ウィーン市長選挙でキリスト教社会党のカール・ルエーガーは、ユダヤ人を激しく攻撃する演説をおこなって人気を獲得し、市議会での投票で過半数を得た。しかしフランツ・ヨーゼフはこれを承認せず、「余の目の黒いうちは、わが帝都の市長として彼を批准することはなかろう」と拒否し続けた。当時、市長は皇帝の任命する州の総督に承認されなければならなかった。そのため皇帝の同意を得られないルエーガーを総督は承認せず、ルエーガーは正式な市長になれなかったが、しかしいくら皇帝が拒否しても彼は繰り返し市長に選出された。この確執は3年にもわたって続き、皇帝による市民無視との印象をウィーン市民に与えた。一般市民の間では「ルエーガー万歳」の声が一段と高まり、ルエーガーは皇帝と人気を競うほどになった。 1897年、5度目の選出を受けたルエーガーに対して、フランツ・ヨーゼフはついに折れて、4月16日にウィーン市長就任に同意した。4月20日にはルエーガーと謁見し、市長就任の宣誓が執り行われた。しかしこの一連の流れからフランツ・ヨーゼフは、帝国内のユダヤ人から「反ユダヤ主義の盾になって下さるわれらの庇護者」としてますます敬愛されるようになった。
※この「ウィーン市長ルエーガーとの対立」の解説は、「フランツ・ヨーゼフ1世」の解説の一部です。
「ウィーン市長ルエーガーとの対立」を含む「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事については、「フランツ・ヨーゼフ1世」の概要を参照ください。
ウィーン市長ルエーガーとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:46 UTC 版)
「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「ウィーン市長ルエーガーとの対立」の解説
即位当初のフランツ・ヨーゼフはユダヤ人の解放を拒んでいたが、1867年以降はユダヤ人の臣民としての身分を尊重するようになった。反ユダヤ主義の社会的風潮の中で、大きな資本を握るユダヤ人の権利の庇護者となったのである。1914年にユダヤ人難民をウィーンから放逐するとキリスト教社会党が政府を脅したのに対し、フランツ・ヨーゼフは追われたユダヤ人にシェーンブルン宮殿を開放するという脅しでこれに応じたと伝えられる。 1895年、ウィーン市長選挙でキリスト教社会党のカール・ルエーガーは、ユダヤ人を激しく攻撃する演説をおこなって人気を獲得し、市議会での投票で過半数を得た。しかしフランツ・ヨーゼフはこれを承認せず、「余の目の黒いうちは、わが帝都の市長として彼を批准することはなかろう」と拒否し続けた。当時、市長は皇帝の任命する州の総督に承認されなければならなかった。そのため皇帝の同意を得られないルエーガーを総督は承認せず、ルエーガーは正式な市長になれなかったが、しかしいくら皇帝が拒否しても彼は繰り返し市長に選出された。この確執は3年にもわたって続き、皇帝による市民無視との印象をウィーン市民に与えた。一般市民の間では「ルエーガー万歳」の声が一段と高まり、ルエーガーは皇帝と人気を競うほどになった。 1897年、5度目の選出を受けたルエーガーに対して、フランツ・ヨーゼフはついに折れて、4月16日にウィーン市長就任に同意した。4月20日にはルエーガーと謁見し、市長就任の宣誓が執り行われた。しかしこの一連の流れからフランツ・ヨーゼフは、帝国内のユダヤ人から「反ユダヤ主義の盾になって下さるわれらの庇護者」としてますます敬愛されるようになった。
※この「ウィーン市長ルエーガーとの対立」の解説は、「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の解説の一部です。
「ウィーン市長ルエーガーとの対立」を含む「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事については、「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の概要を参照ください。
- ウィーン市長ルエーガーとの対立のページへのリンク