ウィーン招聘
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ミュンヘンでの修行の後、さらに4年間イギリス、フランス、イタリアで腕を磨き、1869年に宮内長官ハンス・ヴィルチェク伯爵に勧められてウィーン美術アカデミーの教授招聘に応じた。ウィーンにやってくると、20代後半という若さにして、たちまちウィーン画壇のみならず社交界の中心人物となった。マカルトは、自らのアトリエを単なる仕事場とはみなさず、自身の美的世界を構築する場とした。 きらびやかな飾りのついたドイツ・ルネッサンス風の櫃のうえに、支那の仏像や、テラコッタ産と思われる異教じみたギリシアの聖像がおいてある。後期ローマ様式の二つの柱に支えられた天蓋の下には、一揃の甲冑、古代イタリア風の戸棚には、金と真珠の織りこまれたオリエントの頭布のコレクション。丈のある暖炉に似た置物、その幻想的な木彫りの縁飾りには、軽快なフォルムを描く二つのアレゴリーに守護された女の胸像が会釈をおくっている。スミルナ産の絨緞とゴブラン織が壁をおおい、古代イタリアやオランダ人の作品を思わせる立派な複製、画がそこにくっきりとうかびあがっている。大胆なフォルムのシャンデリア、吊りランプ、女の形をした照明具が、天井板に視線をひきつける。まぐさや室の隅々には、アンティークや中世の武具。人々は胸像、動物の骨、剰製、夾竹桃、楽器といった品々にとりまかれ、ブル流の家具や象嵌細工の椅子にすわり、まばゆいばかりの錯綜のなかに、次第に芸術的な調和を見いだしてゆくのだ。 — マカルトの部屋を訪問したある者の記録 このアトリエの素晴らしさが評判になると、マカルトは1871年にこれを一般公開し、さらに1873年ごろからは芸術家や名士を招いては祝宴を開くようになった。かくしてオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から提供されたマカルトの豪壮なアトリエは、ウィーンの上流階級の社交場と化した。彼は「マカルト帽」などのファッションも生み出した。アトリエには不如意箱が置いてあり、友人はそっとお金を借りていくことができた。
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