世紀末ウィーンの時代背景
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「世紀末ウィーン」の記事における「世紀末ウィーンの時代背景」の解説
「フランツ・ヨーゼフ1世」、「ビーダーマイヤー」、「アウスグライヒ」、および「リングシュトラーセ」も参照 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1872年撮影) 「シシィ」皇妃エリーザベト(ハンガリー王妃戴冠時、1867年) 1858年のウィーン。城塞都市として発展してきたウィーンは、建物が密集する旧市街の周囲を幅400mの緑地となった斜堤がドーナツ状に取り囲み、その外側に郊外部の市街が広がる構造となっていた。 1888年のウィーン。市を囲んでいた城壁は撤去されてリングシュトラーセが建設された。中央上方から右下方向に流れるのがドナウ川、市の西側は「ウィーンの森」として知られる森林地帯になっている。 1848年革命はウィーンはじめオーストリア帝国全土を揺るがし、ハンガリー各地やミラノ、プラハでも暴動が起こって、ウィーンではメッテルニヒが追放されるなどの混乱のなか皇帝フェルディナント1世が退位し、甥のフランツ・ヨーゼフ1世(在位:1848年 - 1916年)が18歳の若さで後を継いだ。1848年7月、ウィーンで立憲議会が召集され、9月には農民解放令が発令された。封建制が廃止され、土地解放がなされたのである。オーストリアの産業革命が本格的に始動したのはこれ以降であり、大量の労働者が発生し、土地売買が可能になったからであった。 1853年、不凍港獲得を目指すロシア帝国はオスマン帝国との間に戦端を開いてクリミア戦争が起こったが、これに対し、バルカン半島におけるロシアの影響力がさらに増大することを恐れたオーストリアは、オスマン帝国の支持にまわった。これはナポレオン戦争以来の盟友であったロシアとの関係を決定的に悪化させた。1859年にはイタリア統一(リソルジメント)を企図していたサルデーニャ王国との戦争に敗北し、ミラノなどロンバルディア地方を失い、1866年にはオットー・フォン・ビスマルク率いるプロイセン王国との間にドイツ統一をめぐって普墺戦争が起こり、ケーニヒグレーツの戦いでは大敗北を喫した。その結果、オーストリアを盟主とするドイツ連邦は消滅し、イタリアではヴェネト地方を失うなどハプスブルク家率いるオーストリアは確実にその国際的地位を低下させていった。なお、1867年には皇帝の弟マクシミリアンがメキシコで射殺されている。 ドイツから閉め出された形となったオーストリアは、1867年のアウスグライヒ(妥協)によってやむなくマジャール人の自治を認めてオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した。その結果、オーストリア帝国(正式には「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」)とハンガリー王国は外交・軍事・一部の財政をともにするだけで、帝国内ではそれぞれ独自の政府と議会をもつこととなった。とはいえ、マジャール人の自治要求に大幅に譲歩したこの国に対し、チェコ人をはじめとするスラヴ諸民族がそれぞれの自治を求める活動は激しく、対外的に軍事的な国威発揚を続けていくことはもはや限界に達していた。19世紀中葉から後半にかけてのヨーロッパはナショナリズムによる国家統一の旋風が吹き荒れた時代であったが、このことは一方で、この国では二重帝国の複合民族国家としての存在意義を著しく動揺させるものでもあったのである。ここにおいてオーストリアは、排他的なナショナリズムを掲げることができず、むしろ多民族共生・多文化共存の方針を打ち出さざるを得なくなった。 フランツ・ヨーゼフ1世は、政治や軍事に関しては頑固な態度をとりつづけ、ハプスブルク家の凋落さえ理解していなかったといわれるが、幼少のころより絵筆をとるなど芸術に深い関心を寄せ、文化についてはリベラルな考えの持ち主であった。首都ウィーンには将軍たちや支配層の英雄に代わって文人や芸術家たちの銅像が建てられ、かつてオスマン帝国による包囲戦に耐えた城壁は取り壊されて、跡地にはリングシュトラーセ(環状道路)が建設された。 リングシュトラーセの建設は、1857年、フランツ・ヨーゼフ1世の英断によるものであり、ウィーンの市民はこぞってこれを歓迎した。リングシュトラーセの沿線にはウィーン宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)をはじめとして、ウィーン市庁舎、帝国議会、取引所、大学、美術館、博物館、ブルク劇場、コンサートホールなどの公共建造物、そして裕福なブルジョアたちの数多くの豪華な建物があいついで建設された。また、1873年には装いを新たにしたウィーンにおいて万国博覧会が開催された。ウィーン万博は、明治政府が正式に参加した最初の万国博覧会で、そこではアフリカ、中国、日本の芸術も紹介され、ウィーンの芸術もその影響を受けた。なお、この万博を機にオーストリアが経済的に浮上するのではないかという期待もあったが、開会早々に株価が暴落して恐慌に陥り、父親が職人だったクリムトの家はパンさえない状態だったという。 民族比率を見れば、二重帝国のなかでドイツ人が占める割合は1910年の時点で23%にすぎなかった。10をくだらない異なった民族をかかえる帝国各地からはウィーンへの移住者があいつぎ、郊外には集合住宅が建設された。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はユダヤ人に対して寛大な姿勢をとり、1860年代の自由主義的な風潮のなかで、職業・結婚・居住などについて従来ユダヤ人に課せられていた各種の制限を取り除いた。これは、前世紀の啓蒙専制君主ヨーゼフ2世による「宗教寛容令」(1781年)の成就であり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において唱えられた自由・平等の実現でもあった。 当時の東欧ではポグロムと呼称されるユダヤ人迫害が横行していたこともあって、ユダヤ系の人々が数多くウィーンにやって来た。土地所有が禁じられていたユダヤ人たちに居住の自由が与えられたため、それまで縛り付けられていた地方の町を比較的簡単に離れることができたのである。時代はまさに第二次産業革命のさなかにあって、本格的な工業社会の到来にも当たっていた。彼らが移住するに当たっては、ユダヤ人に許されていた金融業で蓄えた財産を持参する場合もあれば、身ひとつでやって来る者もいた。この間、ウィーンでは、1869年に6.6%だった都市人口に占めるユダヤ人の割合が、1880年には10.1%、1890年には11%にまで増大したといわれる。移動の自由を得たユダヤ人たちは、さらにみずからの宗教、ユダヤ教のもつ伝統の重みからも逃れて子女にドイツ語教育をほどこしてオーストリア社会に同化しようとした。この子女の世代から世紀末ウィーン文化の担い手たちが数多く世に現れることとなる。 一方、フランツ・ヨーゼフ1世妃で「シシィ」の愛称をもつ悲劇のヒロイン エリーザベト皇后(1837年 - 1898年)は、ギリシア語・ラテン語だけでなく、シェイクスピア作品を原語で読め、なおかつその一節をエリザベス朝期のドイツ語で言い表すことができたといわれる。稀有といえるほど語学の才に恵まれていた「シシィ」であったが、特にハンガリーの風土と文化を心から愛し、規則ずくめの宮廷を嫌ってハンガリー各地を旅行した。彼女は、たとえば反ハプスブルク的なマジャール人の心さえ動かしてしまうくらいハンガリー語に通じていたという。 一般に1861年から1895年までのウィーンはリベラルな時代といわれている。万博の開かれた1873年は経済恐慌が起こって一時的に社会的緊張が生じており、スラブ系諸民族の自立化の要求は相変わらず存在していたが、それでも1880年代はイタリア・ドイツと三国同盟(1882年成立)を結ぶなど全体的にみて小康状態を保っていた。しかし、1889年、皇帝フランツ・ヨーゼフと「シシィ」の息子で唯一の帝位継承者であったルドルフ大公がウィーン郊外のマイヤーリングで愛人マリー・フォン・ヴェッツェラと謎の情死を遂げ、さらに、1898年には「シシィ」エリーザベト皇后がイタリア人ルイジ・ルケーニによってジュネーヴで暗殺されるなど、皇帝にとって痛恨のできごとが続いた。この間、1895年にはリベラル派が市評議会(1848年成立、定員150名)選挙に敗れて、その代わりに反ユダヤ的なキリスト教社会党が過半数を占め、市長にカール・ルエーガー(後述)が推されたが、皇帝はこれを拒否している。 ルドルフ大公の死後、帝位継承者に指名されたのは皇帝の甥にあたるフランツ・フェルディナント大公であった。しかし、1914年6月28日にサラエヴォを訪れたフランツ・フェルディナント大公はセルビアの民族主義者ガブリロ・プリンチプによって暗殺されてしまう。皇帝はこの犯罪が処罰されることのないまま放置することができず、最後通牒をセルビア政府に突きつけた。7月28日、ついに戦端は開かれた。第一次世界大戦の勃発である。 「何もかもが我が上にふりかかる」—それが口癖だったといわれる皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、大戦中の1916年に亡くなった。その2年後、640年にわたって続いてきたハプスブルク帝国は地上から消滅した。 なお、統計によれば1840年には約40万人だったウィーン市の人口は、1860年には80万人弱となり、次々に郊外を呑みこんで1890年には人口130万を数え、1905年には187万、第一次世界大戦末には220万人に膨れあがっている。
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