世紀末ウィーンの時代背景とは? わかりやすく解説

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世紀末ウィーンの時代背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:33 UTC 版)

世紀末ウィーン」の記事における「世紀末ウィーンの時代背景」の解説

フランツ・ヨーゼフ1世」、「ビーダーマイヤー」、「アウスグライヒ」、および「リングシュトラーセ」も参照 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世1872年撮影) 「シシィ皇妃エリーザベトハンガリー王妃戴冠時、1867年1858年ウィーン城塞都市として発展してきたウィーンは、建物密集する旧市街周囲を幅400m緑地となった斜堤ドーナツ状に取り囲み、その外側郊外部市街広がる構造となっていた。 1888年ウィーン。市を囲んでいた城壁撤去されリングシュトラーセ建設された。中央上方から右下方向流れるのがドナウ川、市の西側は「ウィーンの森」として知られる森林地帯になっている1848年革命ウィーンはじめオーストリア帝国全土揺るがしハンガリー各地ミラノプラハでも暴動起こってウィーンではメッテルニヒ追放されるなどの混乱のなか皇帝フェルディナント1世退位し、甥のフランツ・ヨーゼフ1世在位1848年 - 1916年)が18歳若さで後を継いだ1848年7月ウィーン立憲議会召集され9月には農民解放令発令された。封建制廃止され土地解放なされたのであるオーストリア産業革命本格的に始動したのはこれ以降であり、大量労働者発生し土地売買可能になったからであった1853年不凍港獲得目指すロシア帝国オスマン帝国との間に戦端開いてクリミア戦争起こったが、これに対しバルカン半島におけるロシア影響力がさらに増大することを恐れたオーストリアは、オスマン帝国支持まわった。これはナポレオン戦争以来盟友であったロシアとの関係決定的に悪化させた。1859年にはイタリア統一リソルジメント)を企図していたサルデーニャ王国との戦争敗北しミラノなどロンバルディア地方失い1866年にはオットー・フォン・ビスマルク率いプロイセン王国との間にドイツ統一めぐって普墺戦争起こりケーニヒグレーツの戦いでは大敗北を喫したその結果オーストリア盟主とするドイツ連邦消滅しイタリアでヴェネト地方を失うなどハプスブルク家率いオーストリア確実にその国際的地位低下させていった。なお、1867年には皇帝の弟マクシミリアンメキシコ射殺されている。 ドイツから閉め出された形となったオーストリアは、1867年アウスグライヒ妥協)によってやむなくマジャール人自治認めてオーストリア=ハンガリー二重帝国成立したその結果オーストリア帝国正式には「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」)とハンガリー王国外交・軍事一部財政ともにするだけで、帝国内ではそれぞれ独自の政府議会をもつこととなったとはいえマジャール人自治要求大幅に譲歩したこの国に対しチェコ人はじめとするスラヴ諸民族それぞれの自治求め活動激しく対外的軍事的な国威発揚続けていくことはもはや限界達していた。19世紀中葉から後半にかけてのヨーロッパナショナリズムによる国家統一旋風吹き荒れた時代であったが、このことは一方で、この国では二重帝国複合民族国家としての存在意義著しく動揺させるものでもあったのであるここにおいてオーストリアは、排他的なナショナリズム掲げることができず、むしろ多民族共生多文化共存方針打ち出さざるを得なくなったフランツ・ヨーゼフ1世は、政治軍事に関して頑固な態度とりつづけハプスブルク家凋落さえ理解していなかったといわれるが、幼少のころより絵筆をとるなど芸術に深い関心寄せ文化についてはリベラルな考え持ち主であった首都ウィーンには将軍たちや支配層英雄に代わって文人芸術家たちの銅像建てられ、かつてオスマン帝国による包囲戦に耐えた城壁取り壊されて、跡地にはリングシュトラーセ環状道路)が建設された。 リングシュトラーセ建設は、1857年フランツ・ヨーゼフ1世英断よるものであり、ウィーン市民こぞってこれを歓迎したリングシュトラーセ沿線にはウィーン宮廷歌劇場現在の国立歌劇場)をはじめとしてウィーン市庁舎帝国議会取引所大学美術館博物館ブルク劇場コンサートホールなどの公共建造物、そして裕福なブルジョアたちの数多く豪華な建物あいついで建設された。また、1873年には装い新たにしたウィーンにおいて万国博覧会開催された。ウィーン万博は、明治政府正式に参加した最初万国博覧会で、そこではアフリカ中国日本芸術紹介されウィーン芸術その影響受けた。なお、この万博機にオーストリア経済的に浮上するではないかという期待もあったが、開会早々に株価暴落して恐慌に陥り、父親職人だったクリムトの家はパンさえない状態だったという。 民族比率見れば二重帝国のなかでドイツ人占め割合1910年時点23%にすぎなかった。10くだらない異なった民族をかかえる帝国各地からウィーンへの移住者があいつぎ、郊外には集合住宅建設された。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世ユダヤ人に対して寛大な姿勢をとり、1860年代自由主義的な風潮のなかで、職業結婚居住などについて従来ユダヤ人課せられていた各種制限取り除いた。これは、前世紀啓蒙専制君主ヨーゼフ2世による「宗教寛容令」(1781年)の成就であり、アメリカ独立宣言フランス人権宣言において唱えられた自由・平等の実現でもあった。 当時東欧ではポグロム呼称されるユダヤ人迫害横行していたこともあって、ユダヤ系人々数多くウィーンにやって来た。土地所有禁じられていたユダヤ人たちに居住の自由が与えられたため、それまで縛り付けられていた地方の町を比較簡単に離れることができたのである時代はまさに第二次産業革命のさなかにあって本格的な工業社会到来にも当たっていた。彼らが移住する当たっては、ユダヤ人許されていた金融業蓄えた財産持参する場合もあれば、身ひとつでやって来る者もいた。この間ウィーンでは、1869年に6.6%だった都市人口占めユダヤ人割合が、1880年には10.1%、1890年には11%にまで増大したといわれる移動の自由得たユダヤ人たちは、さらにみずからの宗教ユダヤ教のもつ伝統重みからも逃れて子女ドイツ語教育ほどこしオーストリア社会同化ようとしたこの子女の世代から世紀末ウィーン文化担い手たちが数多く世に現れることとなる。 一方フランツ・ヨーゼフ1世妃で「シシィ」の愛称をもつ悲劇のヒロイン エリーザベト皇后1837年 - 1898年)は、ギリシア語ラテン語だけでなく、シェイクスピア作品原語読めなおかつその一節エリザベス朝期のドイツ語言い表すことができたといわれる稀有といえるほど語学の才に恵まれていた「シシィであったが、特にハンガリー風土文化心から愛し規則ずくめの宮廷嫌ってハンガリー各地旅行した。彼女は、たとえば反ハプスブルク的なマジャール人の心さえ動かしてしまうくらいハンガリー語通じていたという。 一般に1861年から1895年までのウィーンリベラルな時代といわれている。万博開かれた1873年経済恐慌起こって一時的に社会的緊張生じており、スラブ系諸民族自立化要求は相変わらず存在していたが、それでも1880年代はイタリア・ドイツと三国同盟1882年成立)を結ぶなど全体的にみて小康状態保っていた。しかし、1889年皇帝フランツ・ヨーゼフと「シシィ」の息子唯一の帝位継承であったルドルフ大公ウィーン郊外マイヤーリング愛人マリー・フォン・ヴェッツェラと謎の情死遂げ、さらに、1898年には「シシィエリーザベト皇后イタリア人ルイジ・ルケーニによってジュネーヴ暗殺されるなど、皇帝にとって痛恨できごと続いたこの間1895年にはリベラル派が市評議会1848年成立定員150名)選挙敗れてその代わり反ユダヤ的なキリスト教社会党過半数占め市長カール・ルエーガー後述)が推されたが、皇帝はこれを拒否している。 ルドルフ大公死後帝位継承者に指名されたのは皇帝の甥にあたるフランツ・フェルディナント大公であった。しかし、1914年6月28日サラエヴォ訪れたフランツ・フェルディナント大公セルビア民族主義者ガブリロ・プリンチプによって暗殺されてしまう。皇帝はこの犯罪処罰されることのないまま放置することができず、最後通牒セルビア政府突きつけた。7月28日、ついに戦端開かれた第一次世界大戦の勃発である。 「何もかも我が上にふりかかる」—それが口癖だったといわれる皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、大戦中の1916年亡くなったその2年後、640年わたって続いてきたハプスブルク帝国地上から消滅した。 なお、統計によれば1840年には約40万人だったウィーン市人口は、1860年には80万人弱となり、次々郊外呑みこんで1890年には人口130数え1905年には187第一次世界大戦末には220万人膨れあがっている。

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