パリ時代
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「ジャコモ・マイアベーア」の記事における「パリ時代」の解説
ルイ16世により、ユダヤ人に完全な市民権が与えられていたため、ユダヤ人にとって当時のフランスでは活躍し易い環境が整っていた。また、著作権についても他国より進んでおり、作曲家の法的立場も保護されていたうえ、パリでは作曲の報酬も高額だった。さらに、フランスの楽器産業が主に1830年代以降長足の進歩を遂げたことが、特に管楽器の分野で、オペラのオーケストラに、それまで使わなかった楽器を取り入れたり、楽器の新しいテクニックを開発すことにつながった。また、パリにはイタリア・オペラ専門の歌劇場であるイタリア座(英語版、フランス語版)があり、イタリア人の作曲家には進出しやすい状況となっていた。マイアベーアも1825年に『エジプトの十字軍』のパリ公演で名声を博し、1826年からパリに定住し、『悪魔のロベール』(1831年)や『ユグノー教徒』(1836年)、『預言者』(1849年)などの歌劇を発表し、国際的名声を確立し、グランド・オペラの黄金時代を築き上げた。1842年からベルリン宮廷歌劇場の音楽監督に就任。これ以降パリとベルリンを頻繁に行き来することになる。1864年、パリで没した。マイアベーアはスクリーブと組んで成功したオベール、ジャック・アレヴィと比較して最も劇場的センスを持っていた作曲家で、台本、音楽、演出、舞台、 衣装、合唱、バレエなどあらゆることに目を配り、監督した。また、マイアベーアはドイツ、イタリア、フランスの各オペラ様式を身に付けた作曲家だった。マイアベーアは18世紀までは資金提供してくれる王侯貴族がオペラの聴衆であったが、19世紀のフランスにおいては新興市民層が主たる聴衆となっており、オペラの産業化を良く理解していた。他の作曲家がこのことを知らなかったわけではないが、銀行家の息子だけあって、オペラの上演自体は事業であり、そのために必要な聴衆の趣向の把握やオペラ座の管理者たちとの連携、宣伝、ジャーナリストへの対応、収益管理などを手際よくこなした。こういった事業運営という領域は作曲家(例えばベルリオーズなど)が得意とするものではないことが多い。ベルリオーズはマイアベーアの作曲技術を高く評価し、自著『現代楽器法および管弦楽法大概論(フランス語版)』の中にマイアベーアの譜例を多く引用しているが、「マイアベーアは才能を持って生まれるという幸運に恵まれただけでなく、幸福をつかむ才能もあった」と語っている。
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パリ時代
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「フレデリック・ショパン」の記事における「パリ時代」の解説
パリに到着したが、このときはまだこの地に居を構えるか迷っていた。最初は、現在のパリ2区ポワソニエール大通り (Boulevard Poissonnière) 27番地に住み、翌1832年に現在の9区シテ・ベルジェール (Cité Bergère)、1836年に同ショセ=ダンタン通り38番地へ転居したように、実のところ彼は二度とポーランドに帰国することはなかったので、多くの「ポーランドの大移民」の一人となったことになる。1832年2月に開いた演奏会では、誰もがショパンを賞賛した。大きな影響力を持っていた音楽学者・批評家のフェティスは「ルヴュ・ミュジカル誌 Revue musicale」にこう記した。「ここにいる若者は、完全なるピアノ音楽の刷新ではないとしても、とにかく長きに渡って希求されつつも果たされなかったこと、つまり史上かつてないような途方もない独創的発想を、誰かを範とすることなく成し遂げたのである」。その3ヶ月前の1831年12月には、シューマンがショパンの『ラ・チ・ダレム変奏曲 Op.2』を評して「一般音楽新聞 Allgemeine musikalische Zeitung」にこう記している。「諸君、脱帽したまえ、天才だ」 パリでショパンは芸術家や他の著名人と出会い、才能を磨き名士として認められ、ヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで、相当の収入を得た。彼はベルリオーズ、リスト、ベッリーニ、ヒラー、メンデルスゾーン、ハイネ、ドラクロワ、チャルトリスキ公、ヴィニー、アルカンらと交友関係を築いた。 ショパンは熱烈なポーランド愛国主義者だったが、フランスではフランス式の名前を名乗っていた。フランスの旅券で旅行していたが、これはロシア帝国発行の書類に頼るのを避ける必要があったためではないかと思われる。このフランスの旅券が発行されたのは1835年8月1日であり、これを境にショパンはフランスの市民となった。 ショパンがパリで公開演奏会を行うことはほとんどなかった。後年、彼は300席を擁するサル・プレイエルで毎年1回コンサートを行うようになるが、それよりも彼が頻繁に演奏を行ったのはサロンだった。サロンは貴族や芸術・文学のエリートの集まる場だったが、彼はパリの自宅で友人との小さな集まりを開いて演奏するのをより好んでいた。彼の健康状態は思わしくなく、そのためヴィルトゥオーゾとしてあちこち外遊することはできなかった。一度ルーアンで演奏した他には、首都を出て旅をすることはほとんどなかったという。彼は教育・作曲によって高収入を得ていたため、もともと好きではなかった演奏会を開かなければならないという重圧から逃れることができた。アーサー・ヘドレイはこう見ていた。「生涯を通じてわずか30回を少し超えるくらいという、できるだけ公の場に出なかったショパンが、ピアニストとして最大級の名声を獲得していたことは特殊なことである」 1835年、ショパンはカールスバートに行き、そこで生涯最後となる両親との再会を果たした。パリへ戻る途中でザクセン州を通った彼は、ドレスデンでワルシャワ時代に親交のあったポーランド人貴族のヴォジンスキ伯爵(Wodziński)一家に会った。5年前にポーランドで顔見知りだった娘のマリア(Maria)はその時16歳になっていた。その若い彼女の知的で、芸術の才にも優れた魅力的な様子に、彼は恋に落ちてしまう。翌1836年の9月にはヴォジンスキ一家とマリーエンバートでの休暇を取り、ドレスデンに戻るとすぐにショパンは彼女にプロポーズする。彼女は求婚を受け入れ、その母のヴォジンスカ夫人も一応認めたものの、マリアがまだ若かったこととショパンの健康状態の悪さによって結婚は無期限の延期を余儀なくされる。この婚約は世に知らされることはなく、結局ヴォジンスキ家がショパンの健康状態への懸念から破棄したことにより、結婚はついに現実のものとはならなかった。ショパンはマリアからもらったバラの花、そしてマリアとその母からの手紙を1つの大きな紙包みにまとめ、その上に「我が哀しみ Moja bieda」と書いた。 ショパンのマリアに対する想いは、9月のドレスデンを去る朝に書かれた「別れのワルツ」として知られる『ワルツ 変イ長調』に残されている。パリに戻ったショパンはすぐに作品25の『練習曲集』の第2曲ヘ短調を作曲し、これを「マリアの魂の肖像」と述べた。これと同時に、彼はマリアに7つの歌曲を贈った。それらはポーランドロマン派の詩人たち、ステファン・ヴィトフィツキ、ヨゼフ・ザレスキ、アダム・ミツキェヴィチの詩に曲をつけたものだった。 婚約破談後は、ポーランド人のポトツカ伯爵夫人がショパンにとって創作上の、また女性として興味を注ぐ対象となった。彼は伯爵夫人に有名なワルツ作品64-1『子犬のワルツ』を献呈している。 パリにいる間、ショパンはわずかな数の公開演奏会に参加した。そのようなプログラム掲載の参加者目録を見ると、この時期のパリがいかに芸術的に豊かな場所だったかがわかる。例えば、1833年3月23日の演奏会ではショパン、リスト、ヒラーがバッハの『3つの鍵盤楽器のための協奏曲』を演奏し、1838年3月3日にはショパン、その弟子アドルフ・グートマン(Adolphe Gutman)、アルカンとその師のピエール・ジメルマンの4人で、アルカンのピアノ8手用編曲でベートーヴェンの『交響曲第7番』を演奏している。 また、ショパンはリストのベッリーニの主題による『ヘクサメロン変奏曲』の作曲に参加し、最後の第6変奏を担当した。
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パリ時代 (1839-1842)
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「リヒャルト・ワーグナー」の記事における「パリ時代 (1839-1842)」の解説
1839年、ロンドンからドーバー海峡を渡り、船上で婦人からパリで成功したユダヤ人作曲家ジャコモ・マイアベーアへの紹介状を書いてもらった。一時ブローニュ=シュル=メールで歌劇『最後の護民官リエンツィ』を完成させた。 銀行家の息子だったマイアベーアはパリで1824年に『エジプトの十字軍』を成功させ、『悪魔のロベール』(1831年)、サン・バルテルミの虐殺に基づくグランド・オペラ『ユグノー教徒』(1836年)の大ヒットなどで名声を博し、1842年にはベルリン宮廷歌劇場音楽監督に就任した。マイアベーアの『預言者』(1849年)では最初の10回の収入だけで10万フラン、さらに版権で44000フランを獲得したうえに、レジオンドヌール勲章、ザクセン騎士功労章、オーストリア・フランツ・ヨーゼフ騎士団騎士勲章、ヴュルテンベルク上級騎士修道会勲章、エルネスティン家一級指揮勲章、イエナ大学名誉博士号、ベルリン芸術アカデミー顧問などの名誉を獲得した。 1839年9月、マイアベーアはオペラ座支配人への推薦を引き受けてくれたため、ワーグナー夫妻は感激した。しかし、10月には推薦が効き目なく、希望は幻滅へと変わり、マイアベーアへの邪推、そしてパリ楽壇、ユダヤ人を敵視するようになっていった。この頃、ワーグナーは生活費の工面や『リエンツィ』や『さまよえるオランダ人』の上演の庇護をマイアベーアから受けていた。ワーグナーもマイアベーアはグルック、ヘンデル、モーツァルトと同じくドイツ人であり、ドイツの遺産、感情の素朴さ、音楽上の新奇さに対する恥じらい、曇りのない良心を保持しており、フランスとドイツのオペラを美しく統一した作曲家であると称賛した。また、マイアベーアは多くのユダヤ人がキリスト教に改宗する時代において、改宗を拒否した唯一の例であった。一方でマイアベーアは聴衆のほとんどは反ユダヤ主義であるとハイネへの手紙で述べている。 マイアベーアの紹介で、ユダヤ人出版商人シュレザンジューから編曲や写譜の仕事を周旋してもらい、また雑誌への寄稿を求められて、小説『ベートーヴェン巡礼』を連載した。パリではドイツ人ゴットフリート・アンデルス、ザームエル・レールス、画家キーツと親交を結び、プルードンやフォイエルバッハの思想を知った。 1840年2月の手紙でワーグナーはマイアベーアを民族の偏見をなくし、言語による境界を取り払う音楽として称賛している。 1840年の「ドイツの音楽について」でワーグナーは、ドイツ国はいくつもの王国や選帝侯国、公国、自由帝国都市に分断されており、国民が存在しないために音楽家も地域的なものにとどまっていると嘆いたうえで、しかしドイツはモーツァルトのように、外国のものを普遍的なものにつくりかえる才能があると論じた。同年、反フランス的なドイツ愛国運動「ライン危機」がドイツで広がり愛国歌謡が作られたが、ワーグナーはこれを嫌悪した。ライン危機とは、1840年にフランスのティエ−ル内閣がライン川を国境とすべきだとドイツに要求したことに対する反フランス的なドイツの愛国運動のことであり、「ドイツのライン」「ラインの守り」「ドイツの歌」などの愛国歌謡が作られたが、ワーグナーは共感しなかった。 偽名で発表したエッセイ「ドイツ人のパリ受難記」(1841)では「パリでドイツ人であることは総じてきわめて不快である」と書き、ドイツ人は社交界から排除されているのに対して、パリのユダヤ系ドイツ人はドイツ人の国民性を捨て去っており、銀行家はパリでは何でもできる、と書いた。ワーグナーの身近にいたマイアベーアは事実、偽客(サクラ)を動員したり、ジャーナリストを買収するなどしており、ハイネもそうして獲得したマイアベーアの名声に対して「金に糸目をつけずにでっちあげた」と批判していた。1842年頃には、ワーグナーはシューマンへの手紙でマイアベーアを「計算ずくのペテン師」と呼ぶようになった。 この頃、ハイネから素材をとり『さまよえるオランダ人』(1842年)を作成した。ワーグナーはハイネと親しく、ハイネがユダヤ系のルートヴィヒ・ベルネを『ベルネ覚書』で批判すると、ワーグナーはハイネを擁護した。 パリでワーグナーが認められることはなかった一方で『リエンツィ』は1841年6月に故郷であるザクセン王国・ドレスデンで完成したばかりのゼンパー・オーパー(ドレスデン国立歌劇場)での上演が決定し、1842年4月にワーグナーはパリで認められなかった失意のうちに、『リエンツィ』の初演に立ち会うためにザクセン王国ドレスデンへ戻った。
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パリ時代(1921年 - 1924年)
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「青山義雄」の記事における「パリ時代(1921年 - 1924年)」の解説
1920年代のパリはエコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれ、フランス人ではない多くの異邦人画家が才能をあふれさせた時代である。当時、日本人画家も画学生を含めて300~500人がパリに滞在していた。青山は横浜から船に乗ってフランスへ向かった。フランス語も全く分からなかったが、船中48日間で猛勉強し、かなりしゃべれるようになった。 パリ到着後、3日目には美術学校に通い始めデッサンを学んだ。生活は厳しく、「ウサギのエサにする」と八百屋で野菜くずをもらってスープを作るような毎日だった。だが、パリの日本人会書記という職を得て糊口をしのぐことができた。その年の秋にはサロン・ドートンヌに小品を2点出品していきなり初入選を果たした。翌年、大作「二人の男」も入選し、青山の名は少しずつ知られ始めた。日本人会に住み込みで勤めたことも青山の交友関係を広げた。画家だけでなく、木下杢太郎、斎藤茂吉、久生十蘭、小宮豊隆、安倍能成などとも親しくなった。
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パリ時代
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1921年(大正10年)に8月に退社し、フランスへ渡る。パリで絵画、演劇を研究し、木下杢太郎らと交わった。とりわけセザンヌに傾倒し、ついに芸術家への道を歩み始める。 1922年(大正11年)6月に帰国。岡崎に戻りたまたま知遇を得た岡田撫琴に岡崎で美術展を開くことを主張。岡田はそれを本多敏樹市長に進言し、その結果1922年(大正11年)11月18日から28日までの期間、全国でも珍しい市による公募展である第1回「岡崎美術展」が開催された。同展覧会には近藤自身がパリで制作した「笛吹く人」をはじめ七点の油彩画を出品した。 1923年(大正12年)、『グレゴリイ夫人戯曲集』の翻訳(翌年出版)その他の著述を行い新劇活動に邁進するうちに関東大震災に遭う。岡崎市立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)絵画科嘱託教員となる傍ら、六供町の自宅からほど近い籠田町にアトリエを開く。
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パリ時代
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1931年に移り住んだパリで彼女は、ポール・エリュアール、マックス・エルンスト、ジョルジュ・バタイユ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ピカソ、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグら多くの芸術家と知り合った。ピエール・ド・マンディアルグとカルティエ=ブレッソンとは、共にヨーロッパ中を自動車で旅行した(その年にカルティエ=ブレッソンが撮ったプールサイドでの彼女のヌードは、2007年に30万5000ドルで売られ、彼のその時期の単体作品としてはオークションでの最高額を記録している)。 デ・キリコやエリュアールは1936年ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊でのフィニの個展のカタログに、紹介文や詩を寄せている。1936年から37年にかけてパリで噂のカップルの相手であったエルンストは1960年のロンドンのキャプラン画廊でのフィニの展覧会カタログの序文に彼女への賛辞を送っている。1950年までフィニの恋人であったピエール・ド・マンディアルグは1949年に仮面を被ったフィニの写真を掲載したフィニへのオマージュ『レオノールの仮面』を出版している。フィニと知り合ったシュルレアリストたちの多くがフィニへの賛辞を惜しまないが、フィニ自身はその運動に属したことはなく、シュルレアリストたちが開いた扉を自分は思春期に既に倒していたと言っている。彼女はどのようなグループにも「所属」することを嫌ったが、特にブルトンに顕著に見られるように、女性芸術家を芸術家として認めるのではなく「ミューズ」として崇めるという、シュルレアリスム運動における女性の自律性の否認という矛盾を見抜いていた。 最初のパリ滞在時、フィニはダリらと同様に、ココ・シャネルと名声を競ったローマ生まれのデザイナー、エルザ・スキャパレッリにアクセサリーや服のデザインを売っていたが、彼女がボトルをデザインした香水「ショッキング」はハウス・オブ・スキャパレッリでもっとも良く売れた。
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パリ時代(1920年 - 1940年)
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「ジェイムズ・ジョイス」の記事における「パリ時代(1920年 - 1940年)」の解説
自身の眼の手術と統合失調症を患った娘ルチアの治療のためジョイスはたびたびスイスを訪れた。パリ時代にはT・S・エリオットやヴァレリー・ラルボー(Valery Larbaud)、サミュエル・ベケットといった文学者との交流が生れた。パリでの長年にわたる『フィネガンズ・ウェイク』執筆中はユージーン・ジョラスとマライア・ジョラス夫妻がジョイスの手助けをした。夫妻の強い支持とハリエット・ショー・ウィーヴァーの財政支援がなかったならば、ジョイスの著書は出版はおろか脱稿さえしなかった可能性が高い。ジョラス夫妻は伝説的な文芸雑誌『トランジション』にジョイスの新作を『進行中の作品』("Work in Progress")の仮題で不定期連載した。この作品の完結後につけられた正式タイトルが『フィネガンズ・ウェイク』("Finnegans Wake")である。
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パリ時代
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「フリオ・ゴンサレス (彫刻家)」の記事における「パリ時代」の解説
パリでは金属加工業を営んだ。モンマルトルにあったスペイン人芸術家のサークルに出入りし、パブロ・ガルガーリョ(スペイン語版)、フアン・グリス、マックス・ジャコブらと知り合った。当初は画家になるつもりだったが、なかなか画壇に受け入れられなかった。1908年には兄のジュアン・ゴンサレス(1868-1908)が死去。友人のパコ・ドゥリオの助言で金属作品に転向し、レリーフや小規模な彫刻作品を制作した。金属作品と並行して絵画の制作も続けており、1909年にはついにアンデパンダン展やサロン・ドートンヌに展示されている。1918年にはブローニュ=ビヤンクールにあるルノーの工場で働いて溶接の技術を身につけ、それを作品制作に活かすことに関心を持ち始めた。 1922年にはパリのGalerie Povlolovskyで、1923年にはパリのGalerie du Caméléonで個展を開催した。1920年代半ばにはコンスタンティン・ブランクーシの作業場に出入りし、1927年からゴンサレスは鉄彫刻をはじめた。1927年-1928年の冬にはピカソにガス溶接による金属彫刻の制作方法を教え、1928年から1933年までの間には10前後の作品を共同制作した。共同制作をする前までは、主に平面的な絵画作品に取り組んでいたピカソは、この時ゴンサレスに大きな影響を受け、彫刻への関心も強めていくこととなった。 ピカソの影響でゴンサレスはスタイルを大きく変化させた。はっきりと彫刻家の道を歩み始めたのは50代半ば、1920年代末のことである。それから晩年までの約10年間に数々の彫刻作品を制作した。1934年にはジャン・アルプ、マックス・エルンスト、アルベルト・ジャコメッティ、ジョアン・ミロなどと一緒にスイスのチューリッヒ美術館で開催されたグループ展に出品。1937年には結婚。同年のパリ万国博覧会ではスペイン館に展示されたピカソの壁画「ゲルニカ」が注目を集めたが、ゴンサレスの「La Monserrat」は「ゲルニカ」の隣に展示された。また同年ニューヨーク近代美術館で開催された「キュビスムと抽象芸術」にも作品を出品した。1937年にはパリ郊外アルクイユに転居。第二次世界大戦でナチス・ドイツ軍がフランスを占領すると妻とともにフランスを離れたが、わずか1年後にはアルクイユに戻っている。1942年3月27日、心臓発作によりアルクイユの自宅で死去した。 2015年から2016年にかけて、日本の長崎県美術館・岩手県立美術館・世田谷美術館・三重県立美術館の4館で日本初となるゴンサレスの回顧展が開催された。
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パリ時代
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「ボフスラフ・マルティヌー」の記事における「パリ時代」の解説
パリではルーセルに対位法を学び、フランス六人組やストラヴィンスキーなどの影響を強く受けた作品を作曲した。1929年、故郷ブルノの音楽院ヤン・クンツから作曲科の教授にと招聘を受けたが、これを断り、作曲に専念する。この頃から作風は擬古典的なものとなり、故郷の民謡などを題材にバロック風の作品を書くようになる。1931年、パリのカフェで知り合った縫製工シャルロットと結婚した。1938年ミュンヘン協定が締結された後は、二度と故郷に戻ることはなかった。1940年、彼の名がナチスのブラックリストに載ったことを知ったピエール・フルニエやルドルフ・フィルクスニーの勧めでパリを離れ、スイスの友人パウル・ザッハーやエルネスト・アンセルメの援助でアメリカに渡った。
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パリ時代
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「アメデオ・モディリアーニ」の記事における「パリ時代」の解説
1906年1月、パリへ移住。アカデミー・コラロッシに入学。モンマルトルのコランクール街にアトリエを借り活動を始める。そこはアパート洗濯船に近く、モンマルトルの画家たちと知り合う。この頃、パブロ・ピカソ、ギヨーム・アポリネール、アンドレ・ドラン、ディエゴ・リベラらと交流を結ぶ。1907年末、サロン・ドートンヌに出品するが、同所の回顧展でポール・セザンヌを知り、強い衝撃を受ける。なお、同サロンには1912年にも出品している。また同じ頃、医学研修生のポール・アレクサンドルの勧めで、サロン・デ・サンデパンダンに入会する。アレクサンドルはモディリアーニの絵画をパリで最初に購入した人物である。アンデパンダン展には第24回展(1908年)、第26回展(1910年)、第26回展(1911年)と出品している。しかし当時の評価は低く、ごく少数の新聞に他の作家と共に名が載った程度であり、また作品も売価を大幅に値引かないと売れない状況だった。なお、彼の死後の1926年の回顧展では新聞は高く評価し、例えば肖像画は3万5千フランで売れたことが記録されている。 1909年、モンパルナスに移る。ここでルーマニア出身の彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシと交流する。また、この時期に彼は彫刻に没頭し、1915年頃まではアフリカ、オセアニア、アジア、中世ヨーロッパなどの民族美術に影響を受けた彫刻作品を主に作っていた。資金不足と健康の悪化による体力不足などの理由により、途中で断念せざるを得なかったが、その間に残した一連のスケッチからは、後の作品の特徴であるフォルムの単純化の過程を知ることができる。 1914年、パリでも著名な画商であったポール・ギヨームと知り合い、ギヨーム本人や友人のマックス・ジャコブの勧めもあって、1915年頃から絵画に専念し、画業を始める。当時シャイム・スーティン、藤田嗣治、モーリス・ユトリロとも交友関係にあった。1914年7月、英国人女性のベアトリス・ヘイスティングスと知り合い、2年間交際する。同じ頃、第一次世界大戦が勃発し、モディリアーニは病弱なため兵役は不適格となった一方、長く親交のあったポール・アレクサンドルは召集されてしまい、その後は出会うことはなくなる。1916年には、ポーランド人画商のレオポルド・ズボロフスキーと専属契約を結び、絵をすべて引き取る代わりに、画材などを提供してもらっている。また、同年、シモーヌ・ティローを愛人とするが、翌年別れる。 1917年3月、アカデミー・コラロッシでジャンヌ・エビュテルヌと知り合い、同棲を始める。12月3日ベルト・ヴァイル画廊にて、生前唯一となる個展を開催したが、裸婦画を出展したのがもとで警察が踏み込む騒ぎとなり、一日で裸婦画を撤去する事態となった。1918年、転地療養のためニースに滞在する。同年11月29日長女ジャンヌが誕生。1919年7月にはジャンヌ・エビュテルヌに結婚を誓約している。しかし、貧困と生来患っていた肺結核に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存などの不摂生で荒廃した生活の末、1920年1月24日、結核性髄膜炎により死亡した。35歳没。ジャンヌもモディリアーニの死の2日後、後を追って自宅から飛び降り自殺した。この時、妊娠9ヶ月だったという。ジャンヌの遺族の反対もあり、2人の遺骸は10年後になってようやくパリのペール・ラシェーズ墓地に一緒に埋葬された。
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