フランス六人組とは? わかりやすく解説

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フランス6人組

(フランス六人組 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/18 15:40 UTC 版)

ジャック=エミール・ブランシュ『6人組の面々』(1921年)。中央はピアニストのマルセル・メイエ。左側、下からタイユフェール、ミヨー、オネゲル、ピアニストのジャン・ヴィエネル英語版。右側、左上がプーランク、隣がジャン・コクトー、下がオーリック。デュレはこの頃すでに6人組から離れていたため描かれていない。

フランス6人組(フランスろくにんぐみ Les Six)は、20世紀前半フランスで活躍した作曲家の集団。単に「6人組」とも呼ばれる。全員で活動したのはたったの1回であった。

ロマン派音楽印象主義音楽とは一線を画し、新古典主義音楽に含まれる傾向を示す。

彼等は一つのグループであっても「同じ音楽的傾向は持ち合わせていない」と語っていたものの、今日の音楽学者や批評家は彼らの音楽を「家族的作風」というひとつの傾向にまとめている。また、常に新しい音楽を提案していたグループとしても知られ、全音階(ドレミファソラシド)に最後の可能性を求めた音楽家集団でもあった[1]

フランス6人組の作曲家

結成の経緯

オネゲル、ミヨー、タイユフェールの3人はパリ音楽院の同期生であり、デュレ、オネゲル、オーリックはエリック・サティらと「新しい若者のためのグループ(ヌヴォー・ジュンヌ)」を結成していた。1917年頃にはサティの『パラード』に感銘を受けたプーランクが合流する。

プーランクによれば、当時ヴィユ・コロンビエ劇場の運営を任されていた声楽家のジャーヌ・バトリが企画した、上記6人の作曲家のコンサートが「6人組」成立の発端となった[2]。また、彼らはモンパルナスの画家たちのアトリエにおいて、パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックアメデオ・モディリアーニらと共同で、音楽と美術のコラボレーション「竪琴とパレット」を企画するなどの活動を行った[2]

彼らとつながりが深かった詩人ジャン・コクトーは、『雄鶏とアルルカン』(1918年3月)、『パリ・ミディ』紙(1919年)において印象派にかわる新しいフランス音楽の必要性を説き、コクトーの影響を受けた批評家のアンリ・コレは彼らを「6人組」と名づけ、1920年1月16日付の『コメディア』誌に「ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ」を掲載し、この名称を世に広めた[3]

メンバーとしての創作活動は少なく、共同制作によるピアノ小品集『6人組のアルバム』(1920年)、デュレを除く5人の合作による『エッフェル塔の花嫁花婿』(1921年バレエ・スエドワの委嘱による)などがあるのみである。

出典

  1. ^ エヴリン・ユラール=ヴィルタール 著、飛幡祐規 訳 『フランス6人組 20年代パリ音楽家群像』晶文社、1989年、15頁。ISBN 479-495073X 
  2. ^ a b フランシス・プーランク、ステファヌ・オーデル 編、千葉文夫 訳 『プーランクは語る 音楽家と詩人たち』筑摩書房、1994年。 ISBN 978-4-48-087244-9 
  3. ^ 今谷和徳、井上さつき 『フランス音楽史』春秋社、2010年。 ISBN 978-4-39-393187-5 

関連項目

外部リンク/参考文献


フランス六人組

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 14:25 UTC 版)

新古典主義音楽」の記事における「フランス六人組」の解説

一方フランス楽壇ストラヴィンスキー影響を受けるようになっていたにもかかわらず、「フランス六人組」に代表されるフランス新古典主義音楽は独自の路線とっていた。「六人組」の精神的な支柱ジャン・コクトーであり、「六人組」のとるべき方向コクトーによって規定された。コクトーによると、音楽の本来のとるべき道とは、偉大で深刻な音楽よりも、楽しく軽快音楽なのであり、ベートーヴェンからドビュッシーに至る19世紀音楽は道を誤ったのだとされる。それを批判するには、ニーチェワーグナー批判を、19世紀音楽全般にあてはめることが重要であり、とりわけ当時芸術至上主義傾向嘲笑されなければならない。「六人組」が模範として見出すべきはハイドンであり、またジャズ(やラテン音楽)である。注目すべきことに、アルベール・ルーセルアルテュール・オネゲルのように、根底においてロマン主義的な資質のある作曲家でさえ、ジャズタンゴ自作利用している。 こうしてフランス新古典主義音楽は、バロック音楽よりも、ウィーン古典派との結びつき深めていった。イベールプーランクモーツァルトパスティーシュ作曲しているのも、この流れからすると不自然ではない(プーランク心の師として慕っていたプロコフィエフは、ハイドン現代化させて『古典交響曲』を作曲した。ただしフランス亡命以前のことである)。

※この「フランス六人組」の解説は、「新古典主義音楽」の解説の一部です。
「フランス六人組」を含む「新古典主義音楽」の記事については、「新古典主義音楽」の概要を参照ください。

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