フランス公使ロッシュからの再戦の勧めと慶喜の謝絶
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「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「フランス公使ロッシュからの再戦の勧めと慶喜の謝絶」の解説
12日の午前11時頃、フランス公使レオン・ロッシュと同国書記官兼通訳官・メルメ・カションらが登城し大君(慶喜)との謁見を請い、しきりに「軍艦・武器・費用のたぐいはすべてフランスから便宜をはかって供給いたします」と、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍と交戦した薩摩藩らの新政府軍を討つよう、言葉を尽くして慶喜へくりかえし再戦を説いた。慶喜は「わが国の風儀として、朝廷の命令で兵を指揮するときはどんな法令でもことごとく行われる。たとえ実際には今の日の公卿や大名の様なやからから申し出て命じられたことであっても、勅命といわれると、間違えたり背いたりするのは難しい国風がある。そうであればいま薩摩藩らの新政府軍と戦い、こちらが勝利を得たとしても、万が一にも万が一、天皇をも過って討ってしまえば、末代まで朝敵の悪名はまぬがれがたい。こう考えれば、きのうまでわが徳川宗家に志を尽くしてきた大名らが、いまみな勅命に従おうとしている理由も明らかであろう。よしんば、従来の情義によってわが家に加担する者がいるのだといっても、そうしてしまっては国内各地に戦争が起こり、300年前のような戦乱の世にまいもどってしまい、みなが天の裁きを待つほかなくなってしまう。そもそも東日本へ帰ってきてから、予(自分)の心はすでに決まっており、いささかも動揺していない。だが重臣から末々の役人までも、予の心を察する者は多くない。ただ多くの者たちは、無罪の予が汚名を受けたと憤って、勅命をゆがめている者を深く憎み、ややもすればこの国を紛争地域としてしまう心配もしていない。わが家、中興の祖から今で260年あまり、いやしくも天朝の代官として武士庶民の父母となり国を治めてきた功績を、どうして一朝の怒りに任せなにもかもなきものとしてしまうべきだというのだ。このうえ、なおも予の本意(恭順)に背いて、わたくしの意地を張って兵を動かそうとする者は、わが家代々の霊位にとってすでに忠臣ではない。ましてや皇国にとっては逆賊たるべきだ。予は朝から晩までこのことを臣下に申し諭しておるのだ」とひたすら天皇家の政体(朝廷)への恭順を主張した。このとき、幕府側にはフランスの助けを借りて薩長への憤りを晴らそうとする者が多かったので、慶喜は、はじめはロッシュらと同じ場に陪席していた老中・小笠原長行を退席させ、通弁御用(外交官・通訳)塩田三郎だけを残しロッシュと1対1で対座すると、日本の国体は他国とことなるゆえんを懇々とロッシュへ説き聴かせた。慶喜が「そういうわけで、予(慶喜)はたとえ自分の首が斬られようとも、天皇へ向かって弓を引く事はできない」というと、ロッシュも遂に感服して、「そういうことであらせられますならば、大君陛下の思し召し次第に遊ばされるのがよろしいかと存じます」というに至った。慶喜は、その場で小笠原を退席させたのは、この国家機密に関わる情報漏洩防止のためだったという。 このころ慶喜に仕える幕臣の渋沢栄一は、慶喜の実家にあたる水戸藩主の跡継ぎで慶喜の実弟・徳川昭武(当時14歳)のお供をし、訪欧使節団の一員としてパリ万国博覧会に出席、つづけてフランス国内で滞在留学していた。ロッシュは江戸城での慶喜への拝謁後、フランス母国に帰って渋沢らと直接会うと、渋沢らへ「どうもご一新(明治維新)ということにはなったが、つまりは薩摩藩と長州藩が力を合わせたからとうとうああいうことになったのだ。大君(慶喜公)がどういう思し召しか私には拝察できないが、隠退なされたのは少しお弱いようだ。あんなこと(大政奉還に続けて起きた鳥羽・伏見の戦いでの大阪城撤退や、以後の無血開城での恭順)をなさらずとも、もう少し強くご主張をなされば、決してあんな場合にならずとも行けたのに。それがああなってしまったのは、どうにも残念な事だ。だが、決してあのままで日本が無事に治まるものではない。さらにいろいろな騒動が起きるだろう……」と語った。
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