フランス保護領時代 (1881年-1956年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 22:24 UTC 版)
「チュニジアの歴史」の記事における「フランス保護領時代 (1881年-1956年)」の解説
詳細は「フランス保護領チュニジア」を参照 チュニジア侵攻の結果、ベイは名目のみの君主となり、事実上の統治はフランス人の総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めた。 植民地化後、フランス人農園主によって小麦やオリーブのプランテーションが開発され、イタリア人農民と競う形でフランス人農民が入植し、多くの土地が入植者の手に渡った。1880年にフランス資本によってリン鉱石の採掘が開始され、リンはチュニジアの主要輸出品となった。 1907年にはチュニジア独立を目的とする結社、「青年チュニジア党」が創設された。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、チュニジアからも若年男性が労働力や兵士として徴用された。戦後、青年チュニジア党はチュニジア人の市民権の承認、チュニジア人の政治参加、立憲君主制の憲法を制定することを目標に活動を始め、1920年にチュニスで「ドゥストゥール党(立憲党)」に発展的に解消した。ドゥストール党とフランス政府との交渉の結果、1921年3月にチュニジアの戒厳令が解除された。間もなくドゥストール党から改革党が分裂した。1922年にはナスール・ベイが自らチュニジア人の要求を代表してフランスに憲法制定を要請し、フランスは妥協案として統監の主宰下にあった諮問委員会の機能が部分的に強化された大評議会を開設するなど、一定の改革を施した。1926年にはパリでフランス共産党の影響を強く受けたアルジェリア人労働者とチュニジア人労働者が共同で「北アフリカの星」を創設し、チュニジアにも反帝国主義思想と社会主義思想がもたらされた。 1921年にチュニジアの人口は2,093,900人に達し、フランス人の比率は総人口の2.6%に達した。総人口の内、約7.4%がヨーロッパ人だった。 1929年の世界恐慌により、資本主義経済が浸透していたチュニジアの経済も大打撃を受けた。1930年にはカルタゴでアフリカ大陸初のカトリック聖体大会が開催されたが、この措置はイスラーム教を奉ずる大多数のチュニジア人の不満を呼んだ。1934年にドゥストール党は分裂し、ハビーブ・ブルギーバの指導する「新ドゥストゥール党」はチュニジアの完全独立を要求した。ブルギーバは同年9月に逮捕された。 1939年に第二次世界大戦が勃発し、1940年にナチス・ドイツの侵攻によって第三共和政が崩壊すると、フランス本土ではヴィシー政権が誕生した。当初チュニジアはシャルル・ド・ゴールの自由フランスの呼びかけに応じず、ヴィシー政権の指導下に入った。1942年11月に北アフリカ戦線のドイツ軍とイタリア軍がエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗れると、独伊両軍は同年中にチュニジアにまで敗走した。チュニジアは両陣営の戦場となり、連合軍がチュニジアの枢軸軍を破るのは翌1943年5月のことだった。 獄中のブルギーバはドイツ軍により釈放され、枢軸国への協力を要求されたがブルギーバはこれを拒否した。一方、チュニジアを統治していたモンセフ・ベイはヴィシー政権との関係のためにドイツ軍の要求を受け入れざるを得ず、このために連合軍によってチュニジアが自由フランス領になると、自由フランス政府はモンセフ・ベイを対独協力の罪で退位させた。これ以降、チュニジア独立運動の指導者はベイからブルギーバと新ドゥストゥール党に移ることになる。 1945年にブルギーバは亡命したが、新ドゥストゥール党はチュニジア労働総同盟と結びついて独立運動の主導権を確立し、フェッラーグ(匪賊)と呼ばれるゲリラ組織を指導してフランス政府に対してゲリラ戦で対抗した。1954年に第一次インドシナ戦争がフランスの敗北で終わると、フランスのピエール・マンデス=フランス首相はゲリラに手を焼いたこともあり、チュニジアに内政上の自治を認める協定を決議した。この決議により帰国したブルギーバは新ドゥストゥール党内で反ブルギーバ派の代表だったサラー・ベンユースフを解任し、党をまとめた。折しもモロッコで独立運動が高揚しており、フランス政府は王制を維持することを条件にモロッコの独立とチュニジアの独立を認めたために、1956年3月20日にムハンマド8世アル・アミーン国王を擁してチュニジア王国は独立した。
※この「フランス保護領時代 (1881年-1956年)」の解説は、「チュニジアの歴史」の解説の一部です。
「フランス保護領時代 (1881年-1956年)」を含む「チュニジアの歴史」の記事については、「チュニジアの歴史」の概要を参照ください。
- フランス保護領時代のページへのリンク