訪欧使節団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 17:59 UTC 版)
慶応3年1月(1867年2月)に使節団を率いて約50日をかけて渡仏した。使節団の責任者として若年寄格・勘定奉行格・外国奉行の向山一履、団随行員には昭武の小姓らが含まれ、先の横浜鎖港談判使節団で渡欧経験がある田辺太一や杉浦譲を始め、保科俊太郎や栗本鯤がいた。会計係として渋沢栄一、随行医として高松凌雲、通訳に山内堤雲、翻訳者として箕作麟祥、さらに会津藩の海老名季昌・横山常守や播磨山崎藩の木村宗三、唐津藩からの留学生も同行した。また、佐賀藩の佐野常民、世話掛として同行するフランス領事レオン・デュリーや、民間人でありながらパリ万博において日本民間人唯一の出品者となった商人の清水卯三郎一行や、英国公使館通訳アレクサンダー・フォン・シーボルトも英国帰省のために同行していた。 フランスの蒸気船アルフェー号にて横浜を発ち、香港、仏領サイゴン、シンガポール、セイロンなどを経由し、スエズ経由でフランスに到着した。この間、幕府と友好的なフランス植民地の港では礼砲で迎えられた@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}が、幕府を日本を統一代表する政権であると認めていないイギリス植民地の港では冷遇された。[要出典] 到着後の昭武はナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問した。万博終了後に引き続き、幕府代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴訪した。その間に、オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、イギリス女王ヴィクトリアに謁見した。以後はパリにて留学生活を送った。この頃の昭武は日記をつけており、『徳川昭武幕末滞欧日記』に採録されている。 慶応4年(1868年)1月に外国奉行川勝広道の連絡により、兄である将軍・慶喜が大政奉還を行ったことを知り、使節団の立場は微妙なものとなる。3月、鳥羽・伏見の戦いの報がフランスの新聞に掲載され、随行していた栗本らは帰国し、昭武をはじめとする7名は残留した。程なく新政府から帰国要請が届くが、4月の段階では慶喜からこのまま滞在し勉学するように手紙が送られている。しかし団はこの頃、滞在費および帰国費用の心配をしており、先に帰った栗本らからの送金が無いことに憤っている。ただし栗本らが日本の横浜に帰国したその時、江戸の町は既に新政府に明け渡されており、それどころか5月15日(7月4日)の彰義隊の戦い(上野戦争)の真最中であった。 同じ5月15日(7月4日)のフランスに、新政府よりの帰国命令書が届いたため、一行は帰国することとなった。フランスの関係者の中にはこのまま留学を奨める者もいたが、昭武らは新政府の命に逆らうことが徳川家の印象を悪くすることへの懸念や、今後の滞在費用などに事欠くことから、帰国を決定した。滞在最後の思い出とするためか、10日間にわたってノルマンディーのカーンやシェルブールを回り、ロワール川河口のナントまで旅をした。パリに帰ると、長兄の水戸藩主・慶篤が死去したとの手紙が届いており、水戸藩の政情安定のために次期藩主に指名されることとなった。水戸藩からは出迎えとして、井坂泉太郎、服部潤次郎が送られ渡仏している。 留学中の日記の中に、1868年8月3日 (旧暦) の出来事として「朝8時、ココアを喫んだ(のんだ)後、海軍工廠を訪ねる」と記しており、これは日本人が初めてココアを飲んだ最古の史料記録である。 9月4日(10月18日)に英国船ペリューズ号でマルセイユを出航、11月3日(12月6日)に神奈川に帰着した。この間、水戸藩では藩士の分裂を抑えきれず、弘道館戦争が勃発している。
※この「訪欧使節団」の解説は、「徳川昭武」の解説の一部です。
「訪欧使節団」を含む「徳川昭武」の記事については、「徳川昭武」の概要を参照ください。
- 訪欧使節団のページへのリンク