英国公使館通訳
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「アレクサンダー・フォン・シーボルト」の記事における「英国公使館通訳」の解説
ロシア海軍に勤務することに、健康上の理由もありアレクサンダーは不安を抱いていたが、父の親友の手助けもあって、1862年(文久2年)に英国公使館特別通訳生として雇用された。このときまだ15歳の少年であった。同年に父は帰国し1866年に死去、息子アレクサンダーとの再会はなかった。 ドイツ人であるアレクサンダーの英語は当初十分ではなかったが、1年後には完璧な英語を話せるようになった。当時、幕府には森山栄之助らオランダ語通訳がいるのみであり、日英間の交渉はオランダ語を介して行われていた。ある会議の休憩時に、アレクサンダーが懐中時計の説明を日本語で行い、幕府の役人がこれを理解したことから、両者の直接対話が始まったそうである。なお、生麦事件の交渉において、アーネスト・サトウとともに通訳として交渉に立ち会っているが、この頃はまだ正規の交渉はオランダ語を介して行われていた。 1863年(文久3年)8月、英国の国家試験に合格して正式の通訳・翻訳官に任命された。直後の薩英戦争では代理公使ジョン・ニールの通訳を務め、旗艦ユーライアラスに乗艦した。1864年(元治元年)8月の下関戦争、翌年に幕府と大坂で兵庫の早期開港交渉を行った際にも通訳として参加した。 1867年(慶応3年)、徳川昭武(当時14歳)がパリ万国博覧会に将軍・徳川慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられると、アレクサンダーはその通訳として同行した。一行は欧州をめぐった後パリに滞在していたが、その間に明治維新が起こり、一行は新政府からの帰国命令を受けて帰国した。アレクサンダーは一行の帰国後もしばらく欧州にとどまり、1869年(明治2年)初めに日本に戻ったが、このとき弟のハインリヒを伴った。 1869年、オーストリアの通商使節が来航したときにはこれを助け、その功績によりオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世より男爵位を与えられた。
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