英国公使館通訳とは? わかりやすく解説

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英国公使館通訳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 05:48 UTC 版)

アレクサンダー・フォン・シーボルト」の記事における「英国公使館通訳」の解説

ロシア海軍勤務することに、健康上の理由もありアレクサンダーは不安を抱いていたが、父の親友の手助けもあって、1862年文久2年)に英国公使館特別通訳生として雇用された。このときまだ15歳少年であった同年に父は帰国し1866年死去息子アレクサンダーとの再会はなかった。 ドイツ人であるアレクサンダーの英語は当初十分ではなかったが、1年後には完璧な英語を話せるようになった当時幕府には森山栄之助オランダ語通訳がいるのみであり、日英間の交渉オランダ語を介して行われていた。ある会議休憩時にアレクサンダー懐中時計説明日本語行い幕府役人がこれを理解したことから、両者直接対話始まったそうである。なお、生麦事件交渉において、アーネスト・サトウとともに通訳として交渉立ち会っているが、この頃はまだ正規交渉オランダ語を介して行われていた。 1863年文久3年8月英国国家試験合格して正式の通訳翻訳官任命された。直後薩英戦争では代理公使ジョン・ニール通訳務め旗艦ユーライアラス乗艦した。1864年元治元年8月下関戦争翌年幕府大坂兵庫早期開港交渉行った際にも通訳として参加した1867年慶応3年)、徳川昭武当時14歳)がパリ万国博覧会将軍徳川慶喜名代としてヨーロッパ派遣命じられると、アレクサンダーはその通訳として同行した一行欧州めぐったパリ滞在していたが、その間明治維新起こり一行新政府からの帰国命令受けて帰国したアレクサンダー一行帰国後もしばらく欧州とどまり1869年明治2年初めに日本戻ったが、このとき弟のハインリヒ伴った1869年オーストリア通商使節来航したときにはこれを助け、その功績によりオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世より男爵位を与えられた。

※この「英国公使館通訳」の解説は、「アレクサンダー・フォン・シーボルト」の解説の一部です。
「英国公使館通訳」を含む「アレクサンダー・フォン・シーボルト」の記事については、「アレクサンダー・フォン・シーボルト」の概要を参照ください。

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