1825-1849年 パリ時代 ピアニスト、教師、ピアノ製作者として
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「フリードリヒ・カルクブレンナー」の記事における「1825-1849年 パリ時代 ピアニスト、教師、ピアノ製作者として」の解説
カルクブレンナーは裕福になってパリに戻った。ここで彼はプレイエルのピアノ制作会社の出資者となった。この会社はカルクブレンナーが亡くなる時(1849年)までに、評判と生産高の点からエラールに次ぐ類を見ないものに成長した。カルクブレンナーはドイツ生まれではあったが、当代のフランスピアノ界において五本の指に入るような実力者となっていた。1830年代が彼の絶頂期であった。彼のピアニスティックな実力はその頂点にあり、彼の超絶技巧は1833年、1834年、1836年に訪れたハンブルク、ベルリン、ブリュッセルや他の都市でも熱狂を巻き起こしたのだ。リストやタールベルクが頭角を現すようになって以降、カルクブレンナーの名声は翳っていった。彼は自分がピアニストとして失った評判を埋め合わせるように、自分よりずっと若い女性との幸せな結婚をした。彼女はアンシャン・レジームにおける貴族の遺産を受け継ぐ、裕福で名のあるフランスの令嬢であった。夫妻は貴族流に振舞うのを楽しみ、1830年代にブルボン王朝が復活したようなものとして出来る真似事はやり尽くした。彼はアンギャン=レ=バンでコレラに罹り、自ら治療を試みたものの1849年に他界した。
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