パリ条約からグリーンヴィル条約・ジェイ条約まで
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「北西部領土 (アメリカ合衆国)」の記事における「パリ条約からグリーンヴィル条約・ジェイ条約まで」の解説
詳細は「北西インディアン戦争」を参照 イギリスはアメリカ独立戦争を終わらせる1783年のパリ条約で、アメリカ合衆国にオハイオ川の北およびアパラチア山脈の西のこの地域を割譲したが、その後も長い間、既存の砦を拠点とした軍事的な占拠を続けた。 独立戦争の途中から既に、幾つかの植民地による西方領土領有要求が始まっていた。その植民地とは、バージニア植民地、マサチューセッツ植民地、ニューヨーク植民地およびコネチカット植民地であった。1777年11月に大陸会議で採択された連合規約は即座に批准のために13植民地に送られたが、その批准が完了するのは3年以上経った1781年3月となった。この遅れの原因は、メリーランド植民地のような西方領土の領有要求をしていない植民地が、領有要求をしている植民地の要求を却下しない限り連合規約を批准しないという態度に出たためであった。メリーランド植民地などは、連合規約にうたわれる連邦政府ができた時に、他の植民地の領土が拡がることで政治的なバランスが崩れることを恐れていた。批准を得るための折衝の結果として、合衆国政府に領有要求をしていた植民地が次々と取り下げることになった。ニューヨークは1780年に、バージニアは1784年に、マサチューセッツとコネチカットは1785年に取り下げた。この結果北西部領土の大半はどの植民地にも属さないで、合衆国政府に所有される公共の土地となった。ただし、バージニアとコネチカットは退役軍人に対する補償として、2つの領域を留保した。バージニア軍事地域とコネチカット西部保留地であった。 1785年の公有地条例により、北西部領土の中で売却可能な単位の土地を測量調査する標準的な仕組みが作られた。オハイオ地域は既に異なるやり方で数回、部分的な測量調査が行われていたが、その結果オハイオは測量調査された土地の継ぎ接ぎになっていた。北西部領土の残りの地域は、ほぼ均一な矩形の郡区と区域に分割され、売却と開発ができるようにされた。 1787年7月13日に北西部条例が可決された頃の北西部領土人口は、およそ45,000人の先住民族とフランス人かイギリス人からなる2,000人の交易業者であった。公式には1788年4月7日にオハイオのマリエッタに入植したのがアメリカ合衆国にとっての初めとなっている。1788年7月15日、アーサー・セントクレアがマリエッタに正式な政府を作った。セントクレアの最初の計画では領土を5つの郡に分割する予定だった。ワシントン郡(オハイオのサイオト川の東)、ハミルトン郡(オハイオのサイオト川とマイアミ川の間)、ノックス郡(インディアナと東部イリノイ)、セントクレア郡(イリノイとウィスコンシン)およびウェイン郡(ミシガン)であった。 アメリカの拡張にとって、先住民族との関係および居座りを続けるイギリスの交易基地の存在が障害となった。先住民族との間に長く続いた戦争(北西インディアン戦争)は、1794年のフォールン・ティンバーズの戦いでアンソニー・ウェイン将軍がインディアン種族同盟軍を破り、1795年のグリーンヴィル条約(英語版)でひとまずの決着を見た。イギリスとの関係では、1794年のジェイ条約で一時的ではあるが円滑な関係を築いた。 1800年7月4日、インディアナ準州を分割して、北西部領土(準州)は今日のオハイオのみとなり、州昇格の準備を始めた。1803年3月1日、オハイオ州がアメリカ合衆国の州として認められ、北西部領土は消滅した。
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