パリ攻略の障害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 00:51 UTC 版)
しかしその頃、北方部隊の進軍はフランス人や新聞記者の歓迎で遅れ、ヴェルサイユの到着予定の23日午後8時55分にランブイエ到着がやっとであると連絡が入った。北方部隊の到着と同じ頃ド・ゴールもランブイエに入り、ルクレール少将と今後の進軍計画について会談した。ルクレールは独自の偵察から、ヴェルサイユに向かうよりリムール(英語版)の東アルバジャン(英語版)に向かったほうがパリに向かいやすいと命令を無視する意向を伝え、ド・ゴールもその方針を支持した。しかしこのルートは南方部隊の進軍経路を横断する形となっており、8月24日の午前7時頃には南方部隊と交錯して大渋滞を来した。その上ルクレール部隊が向かったアルバジャンとパリの間にはドイツ軍の強固な防衛陣地があったため激しい抵抗を受けた。そのため第2機甲師団がパリ進軍期間に出した損害の大半はこの日のものであった。 また、フランス人による激しい歓迎も変わらず、この日の進軍は北方部隊に属する第2機甲師団主力が15マイル、南方部隊に属する第2機甲師団の一部が12マイルとはなはだ短いものであったが、南方部隊側はパリまで3マイルに迫っていた。ジロー少将はルクレールにやる気がないと判断し、第4歩兵師団のパリ入城許可を要請し、了承された。 しかし、ルクレールはその間に戦車3輛、装甲軌道車5輛からなるパリ突入部隊を派遣していた。突入部隊はパリ南部のイタリア門(英語版)とオルレアン門(英語版)の間からパリに入城し、午後11時55分にパリ市庁舎前に到着した。ラジオはルクレール師団の入城を伝え、ノートルダム大聖堂の鐘が打ち鳴らされた。しかしパリ市内のドイツ軍は健在であり、外周防備部隊も帰還してきていた。そのため街頭に出ていた市民は再度逼塞することになった。
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