パリ攻撃とコミューン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 05:57 UTC 版)
詳細は「フランス第三共和政」、「パリ・コミューン」、および「普仏戦争」を参照 1870年にナポレオン3世はプロイセンに宣戦したが敗北し、スダンで捕虜となった。これにより同年9月4日、ナポレオン3世は退位し、同日、第三共和政がパリで発足した。普仏戦争の敗北が濃厚となる中で、パリの民衆は街の各地区に「監視委員会」を組織し、成立した国防政府を監視し、パリ市庁舎を占拠するなど、運動を急進化させていた。9月19日、プロイセン軍はパリを包囲し、攻撃を開始した。パリの主要な建物はフランス軍に接収され、ルーブル宮は軍事工場に、オルレアン駅は気球工場、リヨン駅は大砲工場となった。 パリは1871年1月28日に降服し、フランスは敗戦後、領土割譲や賠償金による懲罰的な扱いとなった。これはパリ市民の多くにとって受け入れがたいもので、アドルフ・ティエールが結んだ講和は市民にとって裏切りに映った。同年3月18日、反乱が起き、政府軍はモンマルトルから退却した。政府はヴェルサイユで再結成したが、3月26日に社会主義共和政のパリ・コミューンがパリで樹立された。数日後、政府軍との間で激しい戦乱が勃発し、政府側はパリを少しずつ奪還していった。戦いは5月28日に終わり、双方で約4,000人〜5,000人の死者を出した。その後、パリ・コミューン側の10,000人が銃殺され、40,000人が逮捕、5,000人が国外追放された。
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