パリ彷徨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 20:46 UTC 版)
やがて不良時代を過ごしたモンルージュを離れ、心機一転して新しい生活を始めたいと思い、パリ市内へ足を延ばすようになった。日曜大工的な仕事を引き受けながら演劇やモータースポーツの世界に足を突っ込んでみるがやはり長続きせず、しばらくシテ島の花屋に勤めたりもした。1964年に兵役に服し、ロンス=ル=ソーニエの第60歩兵隊に配属されたが、不服従の罪で営倉に入れられた。除隊後は、母親と共に花屋を営むようになり、パリ・リヨン駅の近くに店を構えたが、この仕事にもほとんど興味が湧かず、すぐに辞めてしまい、このことが(一時的にだか)母親との不和の原因になった。。 1960年代の終盤、音楽の道を志すようになった。1966年から1967年にかけて、パリ5区ムフタール通りのコントルスカルプ広場やサン・ミッシェル地区のカフェで流しの歌手としてボビー・ラポワント、ジョルジュ・ブラッサンス、ボリス・ヴィアン、レオ・フェレ、イヴ・モンタンなどの曲を歌った。ここでザヴィエル・ティボーやジャック・ドラポルトなどの音楽家と知り合い、モン・サント・ジュヌヴィエーヴ地区(パンテオンを頂上とするムフタール通りの坂を上った丘の上)のキャバレー「シェ・ベルナデット」でジョルジュ・ムスタキと知り合い、彼の家に転がり込んだ。なお、ムスタキはからは経済的にも支援を受けることになった。さらにカルチェ・ラタン地区の他のキャバレーへと活動範囲を広げ、フランス・パレとアラン・パレの兄弟と共にバンド「ひまわり」を結成し、また生涯にわたって師と仰いだロマン・ブテイユとも知り合った。
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