パリ平和会議とパリ協定
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「ラインバッカー作戦」の記事における「パリ平和会議とパリ協定」の解説
詳細は「パリ和平協定」を参照 南への攻勢の失速と北ベトナムの荒廃はハノイに交渉のテーブルにつかねばならないと8月上旬には確信させた。この会談は難航していた1968年からの交渉の膠着を解消することとの約束をハノイから新たに取り付けた。北ベトナムが要求していたグエン・バン・チュー南ベトナム大統領の追放や、それに代わって南ベトナム解放民族戦線の参加する連合政権を樹立させる要求は取り消された。外交的膠着は解消され、10月23日にニクソン大統領は北緯20度以北への爆撃を停止させた。ハノイとハイフォンは再び進入禁止となり、ラインバッカー作戦は終了した。空軍の歴史家アール ティルフォードの著書ラインバッカーには「この航空戦は分水嶺だった。これは精密誘導兵器を用いた空軍力の活用を変化させる最初の現代空中作戦であった。」と記している。ティルフォードの言ではこの成功は別の三つの理由があげられ、ニクソン大統領が目標策定に広い軍事的裁量を与えたこと、アメリカの空軍力が強力にかつ適切に用いられたこと、隔絶した技術力がラインバッカー作戦を最初の新時代の空中戦としたことである。 北ベトナム軍の攻勢中とその直後、アメリカ空軍、海軍、海兵隊飛行隊は18,000ソーティの飛行を南ベトナム北部の4つの地域で行い40,000トンの爆弾を管理ラインの防戦に投下した。3月から5月にかけてB-52の飛行頻度は上昇し1ヶ月あたり700から2,200ソーティを行い、クアンチ省に対してだけで57,000トンもの大型爆弾を投下した。B-52は他の空軍、海軍航空機と共にフリーダムトレインとラインバッカーあわせて150,237トンの爆弾を投下している ラインバッカーは第二次世界大戦以来の本格的な戦略爆撃であった。本作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替え、補給線を断つことで北ベトナムの攻勢を鈍化させることに大きく貢献した。北ベトナム軍は通常兵力へと進化していたが、このような戦力は複雑な兵站システムに依存しており、これが航空攻撃からの弱点となった。7月時点で北ベトナムの輸入量は3月の35から50%ほどにまで減少したのではないかと予想されこの作戦の阻止攻撃が成功に終わったことを示している。空軍のロバート N ギンズバーク大将は「最初の四ヶ月で三年半を費やしたローリングサンダー作戦を上回る影響」を有していると語った。キッシンジャー補佐官は平和を手中にしたと発表したが、これはそう簡単にいかなかった。アメリカにとってのベトナム戦争が終わる前に、ラインバッカーII作戦(英語版)で爆撃がもう一度再開されることとなり、150機のB-52による700ソーティーにも及ぶ夜間絨毯爆撃でハノイやハイフォンを焼け野原にし、大損害を被った北ベトナムは国家崩壊の一歩手前に追い込まれた。アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民のみならず南ベトナム国民にさえ大量の死傷者を出し、北ベトナム軍と国民にも、少なからず厭戦的な意識を植え付けた。北ベトナム軍にとって幸いなことに、クリスマス時の再度の北爆は、国際世論の猛反発を受け短期間で中止されたが、アメリカの目論見通り、この空爆は北ベトナム政府をパリ協定と、停戦交渉の席に引き出すことに成功した。
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