パリ和平協定
パリ和平協定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:02 UTC 版)
「カンボジア・ベトナム戦争」の記事における「パリ和平協定」の解説
1985年1月14日、フン・センはカンボジア人民共和国首相に任命され、民主カンプチア連合政府の各派との平和交渉を開始した。1987年12月2日から4日まで、フン・センはカンボジアの将来を話し合うためにフランスのフェール・アン・タルドノワでシハヌークと会談した。更に1988年1月20日-21日に会合が行われ、フン・センはシハヌークに、すぐにカンボジアに帰国することを条件としてカンボジア政府内の地位を提案した。しかしシハヌークは、受け入れの手筈はプノンペンで整っているとしてこの提案を受け入れなかった。失敗したとはいえ、フン・センのカンボジア政府は、共にロン・ノル政権の閣僚だったCheng HengとIn Tamを説得して、カンボジアに帰国させることができた。カンボジアでの平和再構築に向けた最初の重要な段階で、CGDK代表団とPRK代表団は、1988年7月25日の第1回ジャカルタ非公式会議で初めて顔を合わせた。この会合で、シハヌークは三段階の計画を提案し、まず停戦、次にベトナム軍の撤退を監督する国連平和維持活動、最後にカンボジア内の全武装集団の各派を単一の軍隊に統合するというものであった。 ベトナムのNguyen Co Thach外相は、関係する全政党に対し、カンボジアの問題を国内と国外の面に分けるよう主張した。従って、平和の再構築を開始するに当たり、ベトナム代表団は二段階計画を提案し、それはまずカンボジア各派による国内討論に始まり、次に関係国全てとの円卓会議を行うというものだった。ベトナムの提案は会合で支持を得たものの合意には至らなかった。1989年2月19日の第2回ジャカルタ会議で、オーストラリアのガレス・エヴァンス外相は、カンボジア和平計画を推進した。これは停戦や平和維持軍、選挙が行われるまで、カンボジアの主権を維持する連合政府の創設を成し遂げるというものだった。1989年4月29日から30日のベトナム撤退の前夜、平和合意を容易にするために、フン・センは新憲法を採択する国民議会の会議を召集し、曖昧な国家主権の状態を反映したカンボジア国に改名した。更に仏教が再び国教になり、市民は私有財産を持つ権利を保障された。 しかしその間にも、1989年にパリでは第1回カンボジアに関するパリ平和会議が開かれ、この場で武装集団各派の平和交渉は続いた。1990年2月26日、ベトナム軍の撤退に続き、第3回ジャカルタ非公式会議が行われ、最高国民評議会がカンボジア主権を守るために創設された。当初最高国民評議会は12議席を有することになっていて、3議席はCGDK各派に割り振られ、3議席は親ベトナムのカンボジア人民革命党に割り振られた。しかしフン・センは協定案に異議を唱え、代わりにCGDK各派に2議席ずつ6議席を与えカンボジア人民革命党は6議席を有するよう求めた。1991年、最高国民評議会が国連総会でカンボジアを代表し、政治が開始された。それから顕著な動きとして、フン・センは党が民主組織であることを表し、また革命闘争を放棄する取り組みとして、カンボジア人民革命党からカンボジア人民党に改称した。 1991年10月23日、最高国民評議会のカンボジア各派は、ベトナムやカンボジアに関する国際平和会議の15か国とともにパリ和平協定に調印した。カンボジア人民にとっては、カンボジア各派の指導者間には容易ならざる雰囲気が残っていたものの、20年に及ぶ戦争や13年間の内戦が終わりを告げたように見えた。この協定にクメール・ルージュを参加させるために、主要国は1975年から1979年までの時代にポル・ポト政権が取った行動を表す「集団殺戮」という言葉の使用を避けることに合意した。その結果、フン・センはパリ協定が完全なものからほど遠いと批判し、ポル・ポト政権により行われた残虐行為を、カンボジア人民に思い起こさせるのに失敗した、とした。ではあるが、このパリ協定により、国連安保理決議745号に合わせて国際連合カンボジア暫定統治機構 (UNTAC) が創設され、カンボジア政府が民主的に選出されるまで主要な政策や統治業務を監督するという、広範な権限がUNTACに与えられた。 1991年11月14日、シハヌークは選挙に参加するために亡命先の北京から帰国し、数日後には、プノンペンに選挙事務所を立ち上げるために到着したクメール・ルージュのソン・センが続いた。1991年11月27日、キュー・サムファンもバンコクからカンボジアに帰国し、当初は平穏な帰国になるはずであったが、キュー・サムファンの乗った飛行機がポチェントン国際空港に着陸したとたん、罵倒し傷付けようとする怒れる群衆に出会った。キュー・サムファンが市内に出ると、別の群衆が事務所に向かう道筋に並び、車に物を投げ付けた。事務所に到着すると彼はすぐ事務所に入り、直ちに中国政府に救援要請の電話を掛けた。間もなくして怒れる暴徒は、建物内に殺到し、キュー・サムファンを追い求め、天井のファンに吊し上げようとした。結局キュー・サムファンは顔を血塗れにして梯子から脱出でき、直ぐにポチェントン空港に向かい、そこからカンボジアを脱出した。従ってキュー・サムファンの出発と共にクメール・ルージュの選挙への参加は、疑わしいものになった。 1992年3月、カンボジアにおけるUNTACの任務は、22か国からの部隊や6,000名の職員、警察官3,500名、1,700名の文民、選出されたボランティアなど総員22,000名の国連平和維持要員の到着をもって始まった。この任務は明石康が率いた。1992年6月、クメール・ルージュは正式にカンプチア国民連合党を結党し、来たるべき選挙には参加登録しないと発表した。さらにクメール・ルージュは、パリ合意に基づく武装解除も拒否した。それからベトナム族が選挙に参加するのを妨げるために、クメール・ルージュは大量のベトナム人がカンボジアを脱出することになるベトナム市民の虐殺を開始した。彼らは1992年の年末に向け、国連平和維持軍が完全に布陣する前に戦略的な足掛かりを得る目的でKompong Thomに侵攻した。選挙前の期間に、数個の国連部隊が、クメール・ルージュが支配する領域に入ったために攻撃を受けた。 選挙期間中にクメール・ルージュが行った脅迫にもかかわらず、1993年5月28日、フンシンペックはカンボジア人民党の38.23%に対して45.47%を得て勝利した。明らかに敗北したが、フン・センは選挙結果を受け入れることを拒否し、そのために国防省はカンボジア人民党を支持したカンボジア東部諸州の分離を発表した。フンシンペックの指導者でシハヌークの息子であるノロドム・ラナリット王子は、国家を崩壊させないためにカンボジア人民党との連合政府形成に合意した。1992年9月21日、カンボジア立憲国会は新憲法を承認し、ラナリットが第一総理大臣になり、フン・センが第二総理大臣に任命された。1991年9月23日、ノロドム・シハヌークを国家元首とする立憲君主制が再構築された。1994年7月、カンボジア政府はパリ協定に反する行為を続けていることから、クメール・ルージュを非合法化した。最も重要なことは、カンボジア政府も民主カンプチアが犯した集団殺戮や残虐行為を明確に認めたことである。
※この「パリ和平協定」の解説は、「カンボジア・ベトナム戦争」の解説の一部です。
「パリ和平協定」を含む「カンボジア・ベトナム戦争」の記事については、「カンボジア・ベトナム戦争」の概要を参照ください。
- パリ和平協定のページへのリンク