パリ国立音楽院時代
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2000年、13歳でパリ国立音楽院(CNSMDP) に入学し、2005年に最優秀で卒業した。2002年から、オランダ・ロッテルダムでヘルマン・クレッバース、スイス・バーゼルでハンスハインツ・シュネーベルガーに師事した。 在学中、1998年にパリ・エティエンヌ・ヴァトロー国内コンクールの優勝をはじめ、2000年にアヴィニョン国際コンクール、続いてドゥエ国際コンクールで優勝、 2001年にスイス・モリナリ国際コンクール、2002年にザルツブルク・モーツァルト国際コンクールで第2位、ヤング・コンサート・アーティストオーディション国際コンクールのフランス・パリ編で優勝、アメリカ・ニューヨーク編で受賞及び審査員特別賞、2002年ロン・ティボー国際コンクールを史上最年少で優勝、同年にフランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団からベストパフォーミング・アーティスト賞を受賞、 後に、ミュンヘン国際音楽コンクールで第2位、及び聴衆賞を受賞。2005年ドイツ・オスナブリュック音楽賞、2005年、2008年オランダ・へルマン・クレッバース賞を受賞。 2003年パリ・シャンゼリゼ劇場でクルト・マズア指揮、フランス国立管弦楽団と演奏し高い評価を得られ、ヨーロッパ各地で現在も度々再放映されている。 2004年、オランダ・アムステルダム・コンセルトへボウでのライブがオランダ国内で放送され話題となり、その後視聴者アンケートにより ベスト・ライブ・レコーディングのベスト3に選ばれた。 2005年、ドイツ・フランクフルトでのリサイタルをはじめ、ヨーロッパツアーでのリサイタル・デビューを果たした。 2006年、ベルリン・フィルの団員のメンバーと室内楽を組み、ドイツ国内ツアーを行い成功を収めた。中でも、シュロス・エルマウ、ミュンヘン・ヘラクレス・ザールとコンツェルトハウスベルリンホールでの演奏は反響が大きく地方新聞に大きく取りあげられた。 ミュンヘンでベラ・バルトークのヴァイオリン・ソロ・ソナタを演奏した際に会場で聴いていたヨゼフ・スークが絶賛し、後にイギリスを拠点とする月刊クラシック音楽雑誌「the strad」のインタビューでコメントを残している「[...] 彼女のバルトークのようなエキサイティングな演奏はここ数年聴いていない [...] 珍しい宝石を見つけたような気持ちになった。」 日本国内のオーケストラをはじめ、フランス国立管弦楽団 、フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団、リヨン国立管弦楽団、バイエルン放送交響楽団、MDR交響楽団、ミュンヘン室内管弦楽団、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団、フランクフルト放送交響楽団 、ライプツィヒ放送交響楽団、ドイツ室内フィルハーモニー管弦楽団、モーツァルテウム管弦楽団等と共演を果たし、またドイツ国営放送主催のツアー、フランス、スイス、オランダ、オーストリア、イタリア、ギリシャでのソロ・リサイタルでも成功を収めている。 室内楽では、ギドン・クレーメル との共演をはじめ、オレグ・マイセンベルク 、 ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ 、ユーリ・バシュメット 、エドゥアルト・ブルンナー 、ルーカス・ハーゲン 、ジェラール・コセ 、ユリウス・ベルガー 、メナヘム・プレスラー 、クリストフ・ポッペン、ミカラ・ペトリ 、エレナ・バッシリエヴァ 、ヴォルカー・アルトマン 、今井信子 、野平一郎 、清水直子 、伊藤恵、児玉桃各氏等、弦楽器のみならず管楽器・声楽及び古典楽器奏者と共演している。 ギドン・クレーメルの招待で出演、共演したオーストリアのロッケンハウス・フェスティバルでは同音楽祭の25周年記念ドキュメンタリーに独占インタビューで出演した。 左手の不調のためレコード会社との契約を全て断っていたが、活動休止の前にクラシック・プロダクション・オスナブルック・レーベル (Classic Produktion Osnäbruck) のワールド・プレミアとして、ゴットフリード・ヘンドリック・マンの『ヴァイオリン・コンチェルト』のレコーディングにゲスト出演をしている。 (2013年12月20日ヨーロッパ発売) その他、スザンヌ・ゲスネル、シュムエル・アシュケナジ、ミシェル・オークレール、ジェラール・プーレ、フランツ・ヘルメルソンにも指導を受けている。 2004年から2009年まで1729年製ストラディヴァリウス「レカミエ」を使用している。
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