クメール・ルージュによる虐殺とカンボジア内戦
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「カンボジア特別法廷」の記事における「クメール・ルージュによる虐殺とカンボジア内戦」の解説
詳細は「カンボジア大虐殺」および「カンボジア内戦」を参照 1970年代後半のカンボジアでは、ポル・ポト率いる共産主義政党クメール・ルージュが政権を握った。1975年4月17日、クメール・ルージュ軍は首都プノンペンを占領し、親米のロン・ノル政権(クメール共和国)を打倒した(後に国名を民主カンプチアと改称)。 クメール・ルージュは、中華人民共和国での文化大革命の毛沢東思想の影響の下に、知識人批判、学校・教育制度の解体、仏教を含む伝統的な価値観の否定など、過激な政策を実行していった。 都市住民の強制大量移住や、強制労働を実施したほか、ロン・ノル政権時代の行政官・軍関係者をはじめとして、知識人、教育関係者、仏教・イスラム教関係者、少数民族、党内外の反対派を次々に粛清した。クメール・ルージュが政権を握っていた約3年8箇月の間にカンボジアで失われた人命は、アメリカ合衆国中央情報局の推計によれば、約170万人から約200万人、ミィ・サムディ(プノンペン国立医科大学教授)の推計によれば、224万人とされる。 1979年1月7日にベトナム人民軍の侵攻により、クメール・ルージュは政権を追われ、ゲリラ勢力となった。その後、反ベトナムのクメール・ルージュ、シハヌーク王党派、ソン・サン共和派の3派連合政権と、プノンペンに成立した親越(親ソ連)のヘン・サムリン政権(カンプチア人民共和国)との間で内戦が続いた。 1979年7月15日、カンボジア人民革命評議会の緊急命令により、プノンペン特別市法廷(英語版) が設置され、被告人欠席のまま、同年8月15日から19日まで裁判が行われ、ポル・ポト及びクメール・ルージュのナンバー2と言われたイエン・サリの2人に死刑が宣告された。 1990年、プノンペン政府のフン・セン首相と3派連合政権のシハヌークとの会談を機に和平プロセスが急速に進行し、1991年のパリ和平協定、1993年の制憲議会選挙を経て、シハヌークを国王として、カンボジア王国政府が成立した。しかし、クメール・ルージュは国連が要請した武装解除を拒否、選挙をボイコットして、和平プロセスから脱落した。 1996年、イエン・サリが同党を離脱して恩赦と引換えに王国政府に投降した。1997年半ば、党内抗争の中タ・モクによって逮捕され身柄を拘束されていたポル・ポトが1998年4月に死去し、そのタ・モクも王国政府に逮捕され、さらに有力な指導者キュー・サムファン、ヌオン・チアが投降し、クメール・ルージュは崩壊した。ポル・ポトの死後、彼個人の責任を追及する道は閉ざされた。一方で、これを機に、生存する指導者の責任を追及すべきだとする気運も高まった。
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