クメール・ルージュによる権力奪取
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「カンプチア王国民族連合政府」の記事における「クメール・ルージュによる権力奪取」の解説
1973年3月に、カンボジア人民解放軍が軍事的成功を収め、シハヌークは「解放された」区域を訪問した。サムファン、ユン、フー・ニム(サロット・サルの場合と同様に、シハヌークは後者の年長者を知らなかったと思われる)と共に写真に写った。アメリカ合衆国は直ちにその写真を偽造であるとして退けた。「3人の幽霊」として知られる3人の上級幹部は、1960年代にシハヌークの警察によって殺害されたと断定されていた。後に映像が公開され、「3人の幽霊」は実際に生きていると証明された。 訪問中、シハヌークは意図的に農民から距離を取っていたが、クメール・ルージュ指導部はシハヌーク登場が歓迎されて大衆的追従が発生する事に深刻に悩んでいる様だった。1973年の間は、「解放された」領域に居たシハヌーク派の地方役人や軍の司令官は、北ベトナムと強い関係を持っていた幹部と同様に、静かに動き始めた。政治的洗脳は、一度シハヌークを封建的君主として糾弾するという形で始まった。1974年までに南西部の強硬路線軍(タ・モクの支配下にあった)が自分達をクメール・ランボーではなくクメール・ルージュと特定し始めた。抑制と強制的な集団化は「解放された」地域、特にカンボジア西部で増え始めた。そこはクメール・ルージュの反ベトナム派や民族主義者が支配していた。フー・ユンは集団化の速度を批判した為、困難な状況を引き起こした。「王国の」(クメール語: Reach)という表現は、直ちにカンプチア王国民族連合政府の宣言によって取り除かれた。 公の場では、(欧米の支持者の利益の為に)キュー・サムファンが「スウェーデンの首相と基本的なイデオロギーを共有していた社会主義者だった」と述べて、シハヌークはカンプチア王国民族連合政府の性質に対して楽観的な態度を取った。しかしながら、アメリカ政府は彼と交渉する事を拒み続けた。非公式な場においては、イタリア人ジャーナリストのインタビューで「クメール・ルージュは桜の種の様に私を吐き出すだろう」と述べるなど、シハヌークはクメール・ルージュの意図に深刻な懸念を持っていることを表明していた。中国の国務院総理周恩来は、フランス大使エティエンヌ・マナシュ(英語版)に、アメリカ人がシハヌークを無視する事や、ロン・ノル軍を支援する為の空爆の継続は、結果的に戦争をより遙かに強い暴力へと導くと忠告した。これらの忠告にも拘わらず、アメリカはシハヌークを無視し続けた。そして中国人は躊躇いながらも、徐々に直接的な支持をクメール・ルージュのみに向け始めた。
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