協定の無効化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 09:40 UTC 版)
ドイツの行動によってミュンヘン協定は事実上空文となったが、チェコスロバキア亡命政府の働きかけによってイギリスが最終的にミュンヘン協定の無効、戦後のチェコスロバキア復活を宣言したのは、1942年8月5日のことであった。戦後ズデーテン地方のドイツ人の大部分は国外追放され、現在ではほとんど残っていない( チェコスロバキアからのドイツ人追放(Expulsion of Germans from Czechoslovakia))。1973年1月21日にドイツ連邦共和国とチェコスロバキア社会主義共和国間で締結されたプラハ条約(ドイツ語版)の第一条では、ミュンヘン協定は無効と見なすと宣言されている。 しかしドイツ連邦共和国側としては、ミュンヘン協定は「1939年3月15日」までは効力を有していたという立場を取っていた。これは、プラハ条約の交渉段階で、チェコスロバキア側がこの解釈の余地をもったドイツ側の草稿を認めてしまったことに端を発すると意見もある。1991年2月27日に締結されたドイツ=チェコ善隣友好条約の交渉ではこの点が議論となり、プラハ協定の無効措置が再確認されている。
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