協定の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/10 18:21 UTC 版)
コンコルド協定の誕生の背景には、1970年代からF1の興行面を一手に取り仕切るようになったバーニー・エクレストンと、1978年にFIAの下部組織だった国際自動車スポーツ連盟 (FISA) 会長に就任したジャン=マリー・バレストルとの対立がある。 エクレストンは元々F1のブラバムチームのオーナーであったが、当時レース主催者から各チームに支払われていたスターティングマネー(出走料)の交渉などを他チームから任されるようになり、1974年にF1製造者協会 (FOCA) が結成されるとその実権を握った(1978年に正式に会長に就任)。その後F1界の事実上のボスとして、レース主催者やテレビ局等との交渉窓口となり、F1界に大きな収益をもたらした。 エクレストンがF1における権力を増して行ったことに対し、本来F1を統括する立場にあるFISAの会長としてバレストルは不満を示していたが、1980年にいわゆるウィングカー(グラウンド・エフェクト・カー)の危険性が表面化すると、バレストル率いるFISAは安全性の確保を理由に、チーム側の反対を押し切ってウィングカーの可動式サイドスカートを禁止するなどの規制を実施した。ただ、その手法があまりにも強権的であったことから、エクレストンらFOCA陣営はこれに強く反発し、一時は「FISA-FOCA戦争」として知られる対立状態に陥った。 当時FOCA側にはブラバムやマクラーレン、ティレルらイギリスに拠点を置くコンストラクターが集まっていたのに対し、FISA側はフェラーリ、ルノー、アルファロメオらヨーロッパ大陸に拠点を置くメーカー系チームの支持を得ていた状態であった。1980年シーズンの第7戦に予定されていたスペインGPにはFOCA系チームのみが参加したが、FISAはこのレースを選手権から除外した。FOCA陣営は同年11月に世界モータースポーツ評議会 (World Federation of Motorsport) を立ち上げ、選手権からの離脱をちらつかせながら、1981年2月の南アフリカGPを自主開催したが、興行的には不成功に終わった。 このような分裂の危機を収拾すべくFISAとFOCAの間で交渉が行われ、1981年3月に最初のコンコルド協定が結ばれた。同協定の詳細は不明だが、一般的にはF1のレギュレーション制定などの面でFISAに最終的な権限があることを認める一方で、F1の興行面に関してはFOCAに全権利を委任することを認めたといわれる。
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