協定の終了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:27 UTC 版)
新東宝の倒産に始まる、1960年代初頭からの日本の映画産業全体の斜陽化は著しく、テレビの急速な普及・発展や高度経済成長による娯楽の多様化などに圧倒されることになった。 1971年、8月に日活は業績不振で一般劇映画からは撤退(夏休み、正月等の時期に向けて、一定数の一般作品も製作)、同年秋より低予算の成人向け映画・日活ロマンポルノへと移行した。 1970年代に入ると、東宝も主力映画作品であった東宝4大喜劇シリーズを完全に終了させ、1971年に専属俳優の一斉解雇に踏み切り、どの芸能事務所にも所属できなかった映画俳優はそれとは別に演劇俳優の受け皿事務所として1963年に東宝本体から分社化した東宝芸能が受け皿として使われた。この頃から現在に至るまで外部の事業者が主に製作を担当し、配給のみを担当するのが東宝配給映画の主力となった。 東映もこの時期にテレビ映画(フィルム撮影のテレビドラマ)へと比重を移し、撮影所などの自社施設で時代劇や刑事物を柱とした一般向け番組や、特撮が主体の子供向け番組の制作を数多く手掛けるようになった。東映子会社の東映動画(現在の東映アニメーション)も、東映が配給する映画向けのアニメを制作するために設立した企業ではあるが、それを期にオリジナル劇場用作品の製作を行われなくなり、テレビ用作品の製作が主で、劇場用作品もそれらの作品の映画版が殆どとなった。 松竹もこの頃からもうひとつの本業の歌舞伎興行にも力を入れるようになった一方、テレビ映画に関しては『必殺シリーズ』(朝日放送テレビ)が成功するまで消極的だった。 五社協定の主導者であった永田雅一率いる大映は、1969年に専属スターの市川雷蔵を病で失って以降スター不足となり、1971年秋に映画製作を中断、年末には経営破綻する。 これらの結果として、この1971年をもって映画会社専属制のスター・システムは崩壊し、五社協定は自然消滅した。 協定の消滅後は、テレビ局や芸能プロダクションが主導して劇場用映画が制作される事例も増えている。
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