新東宝の倒産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:25 UTC 版)
このワンマンぶりから新東宝は次第に赤字体制となり、1960年に「ニュー東映」との資本合併を画策する。社名を「新東映」にするところまで話が進んでいたが、大川博の「会長・大蔵、社長・大川」との提案に対し、大蔵が社長の座に固執したこと、また東映との交渉と並行して日活にも合併を持ちかけていたことで、11月2日に交渉は決裂してしまう。 このなか、大蔵が「第二撮影所」を新東宝の下請け会社で事実上大蔵の所有である「富士映画」に売却していたことが発覚。労組は「大蔵退陣」を掲げて24時間ストを2回決行。11月30日に社長を解任された。新東宝は再建をめざすが、後任社長もわずか4カ月で辞任するなど混迷が続き、1961年に6月に倒産。制作部門の一部は東宝のもとで「国際放映」として存続を図ることとなる。
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