新東宝・日活・助監督時代
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「舛田利雄」の記事における「新東宝・日活・助監督時代」の解説
1954年、舛田は新東宝に入社した時、井上梅次について助監督時代を過ごした。その後、同時期に製作活動を再開した日活に移籍。助監督として井上、市川崑、久松静児らに師事する。 1957年、石原裕次郎主演、井上梅次監督の『鷲と鷹』で助監督を務めたのち監督に昇進。翌年1958年に公開した『心と肉体の旅』で監督デビューを飾る。脚本も兼任。監督昇進時、舛田はまだ29歳であり当時の映画界としては異例のスピードであった。 以後、『赤い波止場』、『今日に生きる』など充実した娯楽作を撮り続け、『錆びたナイフ』をはじめとする石原裕次郎主演作品を最も多く(計25作品)演出した監督として日活を支え、日活アクション映画全盛期に数々の作品のメガホンを執り「日活の舛田天皇」とも言われた。 助監督時代には井上梅次の邸宅に一時期、下宿していたこともある。井上の邸宅で下宿しながら、何本か映画のシナリオの「下書き」を書く。舛田の映画の脚本は、井上のシナリオの下書きをして身についたものが、後に役に立った。舛田は4歳年上の井上のことを「梅さん」と呼ぶ。
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