新東宝から東映へ
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1935年(昭和10年)1月5日、日本統治時代の朝鮮の京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)に建築設計技師の光岡基衛・とみ夫妻の娘として生まれる。1941年(昭和16年)4月、国民学校初等科(かつての尋常小学校)に同地で入学、1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終結の前後に日本に引き上げる。 1950年(昭和25年)4月、千葉県千葉市にあった新制高等学校・聖書学園高等学校(現在の千葉英和高等学校)に入学するも、翌1951年(昭和26年)早々に中途退学し、同年、東京都渋谷区代々木の文化服装学院師範科に入学、同校在学中の1953年(昭和28年)、映画会社の新東宝にスカウトされ、「第2期スターレット」として同社に入社する。同年12月28日に公開された、斎藤寅次郎監督の『初笑い寛永御前試合』に出演、主演の花菱アチャコの恋人・弥生役に抜擢されて、映画界にデビューしたとされる。ただし東京国立近代美術館フィルムセンターの所蔵作品データベースによれば、それに先立つ同年12月13日に公開された田中絹代の初監督作であり、第7回カンヌ国際映画祭に出品された『恋文』に出演しており、光岡の名がクレジットに残っている。その後、次第に脇に回り始め、1956年(昭和31年)いっぱいで東映に移籍した。 東映では当初、東映京都撮影所に在籍し、1957年(昭和32年)1月22日に公開された加藤泰監督の時代劇映画『恋染め浪人』が同社での最初の出演作である。加藤泰の作品には、新東宝時代に『逆襲大蛇丸』(1955年)にすでに出演している。翌1958年(昭和33年)早々に東映東京撮影所に異動、以降、数多くの映画に脇役・端役で出演する。テレビ映画にも出演しており、1962年(昭和37年)9月19日に放映された『特別機動捜査隊』第48回『ダイナマイト』(監督不明)ではゲスト主演を果たした。同撮影所に在籍した6年間に、わかっているだけでも出演作は60作を超えている。1964年(昭和39年)1月28日に放映されたテレビ映画『戦友』第18回『悲しき再会』(監督不明)にゲスト出演したのを最後に、東映を去った。
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