新東宝から東映へとは? わかりやすく解説

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新東宝から東映へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/10 00:57 UTC 版)

光岡早苗」の記事における「新東宝から東映へ」の解説

1935年昭和10年1月5日日本統治時代の朝鮮京城府現在の大韓民国ソウル特別市)に建築設計技師光岡基衛・とみ夫妻の娘として生まれる。1941年昭和16年4月国民学校初等科(かつての尋常小学校)に同地入学1945年昭和20年8月15日第二次世界大戦終結前後日本引き上げる。 1950年昭和25年4月千葉県千葉市にあった新制高等学校聖書学園高等学校現在の千葉英和高等学校)に入学するも、翌1951年昭和26年早々に中途退学し、同年東京都渋谷区代々木文化服装学院師範科に入学同校在学中1953年昭和28年)、映画会社新東宝スカウトされ、「第2期スターレット」として同社入社する同年12月28日公開された、斎藤寅次郎監督の『初笑い寛永御前試合』に出演主演花菱アチャコ恋人弥生役に抜擢されて、映画界デビューしたとされる。ただし東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵作品データベースによれば、それに先立つ同年12月13日公開され田中絹代の初監督作であり、第7回カンヌ国際映画祭出品された『恋文』に出演しており、光岡の名がクレジット残っている。その後次第に脇に回り始め1956年昭和31年いっぱい東映移籍した東映では当初東映京都撮影所在籍し1957年昭和32年1月22日公開され加藤泰監督時代劇映画『恋染め浪人』が同社での最初出演作である。加藤泰作品には、新東宝時代に『逆襲大蛇丸』(1955年)にすでに出演している。翌1958年昭和33年早々に東映東京撮影所異動以降数多く映画脇役・端役出演するテレビ映画にも出演しており、1962年昭和37年9月19日放映された『特別機動捜査隊第48回ダイナマイト』(監督不明)ではゲスト主演果たした。同撮影所在籍した6年間に、わかっているだけでも出演作60作を超えている。1964年昭和39年1月28日放映されテレビ映画戦友第18回悲しき再会』(監督不明)にゲスト出演したのを最後に東映去った

※この「新東宝から東映へ」の解説は、「光岡早苗」の解説の一部です。
「新東宝から東映へ」を含む「光岡早苗」の記事については、「光岡早苗」の概要を参照ください。

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