新東宝との合併破談とニュー東映
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「第二東映」の記事における「新東宝との合併破談とニュー東映」の解説
同年後半、新東宝が各社との配給提携を模索したのを受け、新東宝と第二東映の合併計画が浮上している。正確には、新東宝を現代劇専門の製作会社に位置づけて「新東映株式会社」と商号変更し、取締役社長に東映の大川博、取締役会長に新東宝の大蔵貢(1899年 - 1978年)が就任、時代劇は第二東映が製作し、配給に関しては新東宝・第二東映それぞれの営業部門を合併して「新東映配給株式会社」を発足させ、社長には東映の常務取締役であり第二東映の取締役であった伊藤義(1903年 - 1980年)が就任する、というプランであった。同年10月10日、大川・大蔵会談が行われ、同年11月1日に新体制発足の方向で交渉成立したはずであったが、大蔵が会長に退くことに難色を示し、結論としては破談となった。破談の発表は11月2日に東映からの声明によって行われたが、理由には異論があり、『そして誰もいなくなる 新東宝本社11年の軌跡』(1991年)によれば、佐川滉は大蔵が固執したのはポストではなく自分の持株の引き取り価格であり、その点で難航したと証言しており、また同書は当時東映の常務取締役だった伊勢憲三郎(1899年 - c.1970年)の話として、新東宝専務取締役の山梨稔(1905年 - 没年不詳)が自ら社長をやると発言したことで、大川が交渉を白紙に戻したという証言を紹介している。もともとは大蔵が新東宝の経営に積極性を見失ったことに発端があり、同年11月30日、大蔵は新東宝社長を退陣する結果となった。 「新東映」騒動の3か月後、1961年(昭和36年)2月8日に公開された第二東映京都製作所作品『忍術大阪城』(監督小野登)を最後に、同月3日、同社はニュー東映株式会社と改称、全国5地区に「ニュー東映支社」を新設すると発表した。伊藤義は、ニュー東映関東支社長を兼任した。「ニュー東映」ブランドの第1作は、翌週の同月15日に公開されたニュー東映京都製作所作品『八州血煙り笠』(監督深田金之助)であった。しかしながら、同年11月1日に公開されたニュー東映東京製作所作品『白昼の無頼漢』(監督深作欣二)を最後に製作を中止、ニュー東映株式会社は、東映に吸収合併されて消滅した。その後に公開予定であった作品、たとえば同年12月24日に公開された『地獄の底をぶち破れ』(監督佐々木康)等はニュー東映作品として製作されたものであった。 映画作品の本篇につながるヘッダ部分に入るトップロゴは、東映本番線では「岩に波」であったが、第二東映では「山並に朝焼け」(1960年 - 1961年)、ニュー東映では「火山の噴火口」(1961年)であった。 第二東映は量産に拍車をかけ、人員を膨張させ、他社は大作主義を執り始めた時期に、時代に逆行した第二東映は大失敗した。大川は最初にこの責任を今田に同意した重鎮・伊藤義常務一人に被らせようと画策したが、すぐに発案者が今田だったことが東映内に広まり、特に地方の館主会から、今田は責任を取って東映を辞めるべきと強い圧力が掛かった。今田は大川が最も信頼する側近で、今田を辞めさせると自身の責任問題にも及ぶため、大川は今田を製作の最前線から東映関東支社長(営業)に転任させた。またこの失敗で大川から映画製作の実権が離れ、以降、映画製作の実権は東映の東・西撮影所の所長が握る体制が生まれた。第二東映は現代劇を育てるという目的があったが、館主は時代劇が欲しいだけで、毎週毎週現代劇が続き赤字が続くため、現代劇はいらないと腹を立てていた。
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