新東宝初代社長
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戦後は、映画配給社が1946年(昭和21年)11月解散するとともに、1943年12月10日に合併して設立された東宝に復帰し、常務取締役に就任する。1947年(昭和22年)10月15日、東宝、日活、東横映画、東京急行電鉄(東急)、吉本興業らが出資して設立した太泉スタヂオ(のちの太泉映画、現在の東映東京撮影所)の専務取締役に就任した。 1948年(昭和23年)4月26日、新東宝の設立とともに同社の初代社長に就任する。同社は、前年3月25日に東宝第二撮影所(のちの国際放映撮影所、現在の東京メディアシティ)に設立された新東宝映画製作所の延長線上にある組織で、設立の当初、東宝争議のために生産不能に陥った東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)に代って、東宝が配給するための作品を供給するための製作会社であった。佐生は、1年間全プログラムを供給しうる人材を集め、機構を固めた。 しかしながら、東宝は争議が終結するとともに自主製作を再開したため、佐生は、東宝との配給協定も1949年(昭和24年)7月末日をもって失効したと考え、同年11月初旬に自主配給を行う旨、明言した。このため東宝は、同社を合併したり、同社を解散整理したり等の支配介入を行おうとし、紛争となった。翌1950年(昭和25年)1月、佐生は、自主配給をすべく新東宝配給を設立し、同社の社長を兼任する。これについては、同年、公正取引委員会に訴えて争いになり、東宝が新東宝への支配介入を行わない方向で結審したのは翌年6月5日であった。同年10月15日に発行された『キネマ旬報』復刊特別号第1号の「日本映画の危機に対処する!」特集に『良い映畫を作れば良い』との論文を寄稿、傑作でありさえすれば利益はそれに伴うという「自由市場的な理想精神」で、製作・配給をともに推進した。太泉映画は、1951年(昭和26年)4月1日、東横映画、東京映画配給と合併して東映が発足、太泉映画が前日の3月31日に消滅するとともに、佐生は役員を退任している。1952年(昭和27年)11月に徳川夢声を初代理事長に発足した「東京芸能人国民健康保険組合」の発起人に名を連ねた。 製作機能をまだ持っていなかった日活との提携を模索したが、東宝等の反対派株主に阻まれ、1953年(昭和28年)2月10日、新東宝の取締役社長を辞任、同年6月、日米映画を設立して代表取締役社長に就任した。同社では、1957年(昭和32年)から日本テレビ放送網と提携して1時間もののテレビ映画を製作し、放映直後にそれを新東宝で劇場公開するといった新機軸を打ち出す等、新時代に対応した映画製作を行った。 詳細は「日米映画」を参照 いっぽう新東宝は、二代目社長田辺宗英、三代目社長服部知祥を経て、1955年(昭和30年)11月28日、四代目社長に大蔵貢が就任していた。その後、経営不振のため、1960年(昭和35年)12月1日、大蔵社長が辞任に追い込まれ、1961年(昭和36年)には佐生が再度呼ばれて、総支配人に就任したが、同年8月に旧作約600本の権利売却を行ったのちに同月末に倒産した。1962年(昭和37年)2月には、新外映配給の取締役社長に就任した。同年6月、パラマウント映画の日本支社長であった妻鳥循雄が急逝し、支社長空席のまま、日本総支配人として佐生が返り咲いた。新外映配給については、経営不振のため1963年(昭和38年)に佐生は更迭され、後任社長に片山武次が就任したが、同年11月に倒産している。1964年(昭和39年)6月13日、佐生はわずか2年でパラマウント映画を去った。 1971年(昭和46年)9月21日、死去した。満73歳没。
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