新東宝社長となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:25 UTC 版)
その後も、映画館を複数所有し、大手映画会社すべての有力株主となる。1955年、新東宝の株主総会での発言がキッカケとなり、同社社長の田邊宗英から後任社長に迎えられる。就任は同年12月29日。大蔵は外部から有名監督やスターを招く同社の文芸大作路線を改め、中堅、若手の内部スタッフ、俳優を使った企画第一主義にシフト。特に低予算の猟奇怪談お色気といった「エロ・グロ路線」が鮮明となったのは1957年あたりからである。徹底的なリストラとこの「エロ・グロ路線」によって新東宝創建当時の監督や俳優たちには去られたが、社長就任わずか半年後で新東宝の経営は黒字転換。 一方で話題性を持つ作品づくりを目指すという名目で、当時最大のタブーだった天皇を主役とする映画にも挑戦。嵐寛寿郎に明治天皇を演じさせた渡辺邦男監督『明治天皇と日露大戦争』は大蔵の思惑通り日本映画史上最大のスキャンダルともてはやされて、興行配収7億円(当時)という大ヒットを記録する。 1957年、大蔵は新東宝の制作姿勢について、次のように語っている。 「一部の階級のみに迎合するがごとき芸術作品は敬遠し、一にも二にも、多くの大衆に基盤を置く作品を制作の根本姿勢としたい。これを以て新東宝カラーとしたいと考えております。」 大蔵は映画スターの人気にあやかる「スターシステム」を批判し、「名企画無くして興行の成功はあり得ない」と唱え、「映画は企画」と論じて譲らなかった。「エロ・グロ路線」についても、「不況の時代に百発百中、損をしないのはあの方法しかない」と述べている。 徹底的なワンマン体制を敷いた経営者と誹りを受けるが、その実体は大蔵自身が企画第一主義を標榜した通り、監督やスターの知名度ではなく企画の面白さで集客を狙うという、映画作りの最も基本的なポイントを押さえたものであった。
※この「新東宝社長となる」の解説は、「大蔵貢」の解説の一部です。
「新東宝社長となる」を含む「大蔵貢」の記事については、「大蔵貢」の概要を参照ください。
- 新東宝社長となるのページへのリンク