活動映画弁士となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:25 UTC 版)
大蔵によれば「小学校を四年で卒業し」、13歳で活動写真の弁士となった。好色なトークや、チャールズ・チャップリンの映画をチャップリンそっくりのメイクと衣装で解説するなどの工夫が受け、頭角を現す。無声映画は弁士次第でヒットすると言われ、スター俳優より弁士の稼ぎは凄かった。その後、映画界が無声映画からトーキーへと移行するのを見越して収入を蓄財し、映画館の買収並びに経営に乗り出す。 弁士の多くが漫談等に転向したのに対し(例、徳川夢声)、大蔵は実業家への道を選んだ。貧しさの中で育った大蔵は弁士時代から、「金を貯めるにはまず使わないこと」、「女買いをしないこと、煙草を呑まぬこと、骨身を砕いて働き、一分の暇でも読書し勉強すること。生活に必要以外の金はすべて蓄えること、積んだら下ろさぬこと、芸の向上に魂を打ち込むこと」を座右の銘としていて、弁士時代、肺結核の先輩弁士が食べ残した弁当を自分の昼食代わりにしたほどの倹約ぶりだった。大蔵は、成功してからもこの信念を曲げなかった。 のちに新東宝社長となってから、弁士時代の名口上を披露することがあったが、その語り口は絶品だったと伝えられている。東京都台東区浅草の浅草寺わきにある弁士塚は、大蔵が弁士時代の盟友たちを顕彰するために日本映画大手5社に呼びかけて1958年に建立したものである。
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