助監督時代とは? わかりやすく解説

助監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 13:58 UTC 版)

長谷川和彦」の記事における「助監督時代」の解説

大学に通う傍ら映画監督との出会い求めて夜にシナリオ研究所映画監督浦山桐郎ゼミ受講浦山から今村昌平今村プロ助監督試験紹介されて、合格在学5年目1968年今村プロ入社卒論を残すのみだったが、大学今村命令中退映画神々の深き欲望』の制作スタッフについて沖縄ロケ参加した沖縄ロケでの資金枯渇未払いなど残務理な今村組での体験によって、今村昌平流の粘る映画作りがすり込まれ、後の日活時代助監督生活も苦しいと思ったことはないという。 今村プロ時代24歳結婚家賃2万円のボロ家の今村プロ事務所に、管理人夫婦兼ねて住んだ相米慎二はそこへ長谷川妻の女友達ヒモとして転がり込んでそのまま居着き日活入った1970年今村監督の『にっぽん戦後史・マダムおんぼろ生活』には助監督としてつき、その後1981年映画化された『ええじゃないか』の資料調べをするなど、3年ほど今村プロ在籍。しかし今村プロ開店休業状態のため仕事がなく、他の独立プロ仕事をしたいと今村申し出日活臨時雇い契約助監督仕事を、あくまで出向だぞと釘を刺されながら今村から紹介され1971年日活契約助監督となる。25歳この年国映専務から声をかけられ外国人ポルノ女優使ってピンもどき『センチメンタル・ジャーニー』を作ったが、9割方撮り終えたところで頓挫した当時ダイニチ末期日活ロマンポルノ転換端境期にあたり小沢啓一藤田敏八西村昭五郎神代辰巳らの作品に付く傍ら、『濡れた荒野走れ』、『青春の蹉跌』、『宵待草』、テレビ悪魔のようなあいつ』などのシナリオ書き注目された。「ポルノ脚本なんか書いたら他から仕事が来なくなるぞ」といわれ、ロマンポルノ初期には一線級のライターは殆ど脚本を書かなかったから、長谷川脚本を書くようになった脚本料は1本15万円テレビ悪魔のようなあいつ』は1本25万円長谷川日本映画のプログラムピクチャーシステム体験大手映画会社助監督経験)を持つ最後の世代となる。神代辰巳監督した1974年の『青春の蹉跌』では脚本のみならず、ラストシーンとなるアメフトシーンの撮影担当当時日活社員助監督がみんな監督になってヤケになっていた時期でもあり、「ゴジなんかにも一本撮らせてみるか」と、『卓のチョンチョン』というロマンポルノと『燃えナナハン』という一般映画監督をする話が2度あったが、正社員社員助監督ではなく契約助監督だったことから、いずれも労働組合反対流れる。『燃えナナハン』は、藤田敏八監督の『妹』の併映作の予定だった。政治に関わらないノンポリだったにもかかわらず日活撮影所仕切る日本共産党系労働組合からトロツキスト呼ばわりされる形で撮影所追い出され日活見切りをつけ、1975年よりフリーとなる同年1月には林美雄企画による、渡哲也菅原文太原田芳雄映画俳優コンサート「歌う銀幕スター夢の狂演」を演出当時外部作品契約のまま一本だけ付くということはよくあったが、『青春の殺人者』を撮る際、日活助監督連中に声をかけたら「長谷川についたら、日活は再契約はしない」と当時撮影所長・黒澤満から脅しかけられた。

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助監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 12:19 UTC 版)

黒澤明」の記事における「助監督時代」の解説

1936年、どこかで就職しなければならない思っていた黒澤は、たまたま新聞記事見たP.C.L.映画製作所翌年東宝合併)の助監督募集応募した最初試験は「日本映画根本的欠陥例示具体的にその矯正方法述べよ」という小論文で、黒澤は「根本的欠陥矯正しようがない」と回答し、それで試験通過して最終面接まで残った同社原則として大学卒を採用するつもりだったが、黒澤の絵や文学対す理解才気注目した山本嘉次郎推薦により、学歴旧制中学だけながら例外として合格となり、同年4月入社した助監督入社同期には関川秀雄丸山誠治がいた。最初の仕事矢倉茂雄監督の『処女花園』のサード助監督だったが、この作品1本で仕事嫌になり、退社考えるも同僚説得思いとどまった。 その次に参加したエノケン千万長者』(1936年)から山本サード助監督務めた山本組での仕事楽しく充実したものであり、黒澤映画監督こそが自分やりたい仕事だと決心した山本組の助監督仲間には谷口千吉本多猪四郎がおり、黒澤2人の家に居候することもあった。1937年山本組の製作主任をしていた谷口本社異動になり、黒澤新たに山本組の製作主任についた助監督育成力を入れ山本の下で、黒澤脚本執筆からフィルム編集エキストラロケーション会計までも担当し映画作り大切なことを学んだ面倒見のよい山本自分作品犠牲にして、黒澤たちB班が撮影したフィルム採用し上映され完成作品を見ながらアドバイスをした。黒澤はそんな山本を「最良の師」と仰いだ山本監督の『馬』(1941年)ではB班監督編集務めた黒澤他の仕事忙しい山本から演出のほとんどを任され監督昇進への踏み台とした。この『馬』の東北地方でのロケーション撮影通して黒澤主演高峰秀子との間に恋が芽生えた。しかし、『馬』が公開されたあとに2人結婚話が新聞沙汰になると、会社側は将来嘱望され助監督スターになりかけていた女優の恋を放ってはおけず、高峰養母強く反対していたこともあり、山本破断役となり、恋は不実に終わった黒澤助監督生活を送りながら、山本の「監督なるにはシナリオ書け」という助言従い脚本執筆した初めてその才能認められたのが『達磨寺ドイツ人』(1941年)で、山本推挙映画雑誌掲載されることになったが、記者受け取った原稿をなくし、黒澤3日ほど徹夜してもう一度書き直した。この作品ドイツ人建築家ブルーノ・タウト評伝元にして、タウト寄寓先のの人たちとの交流描き伊丹万作に「特に視覚的に鮮明印象与えることを注目すべきである」と評価された。『馬』以降実質的に助監督仕事はしなくなり、脚本執筆集中した1942年執筆した静かなり』は情報局国民映画脚本募集情報局賞を受賞し、『』は日本映画雑誌協会国策映画脚本募集で1位に入賞した

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