助監督時代
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大学に通う傍ら、映画監督との出会いを求めて、夜にはシナリオ研究所で映画監督の浦山桐郎のゼミを受講。浦山から今村昌平の今村プロの助監督試験を紹介されて、合格。在学5年目の1968年、今村プロに入社。卒論を残すのみだったが、大学は今村の命令で中退。映画『神々の深き欲望』の制作スタッフについて沖縄ロケに参加した。沖縄ロケでの資金枯渇や未払いなど残務処理など今村組での体験によって、今村昌平流の粘る映画作りがすり込まれ、後の日活時代の助監督生活も苦しいと思ったことはないという。 今村プロ時代に24歳で結婚。家賃2万円のボロ家の今村プロ事務所に、管理人夫婦を兼ねて住んだ。相米慎二はそこへ長谷川の妻の女友達のヒモとして転がり込んでそのまま居着き日活に入った。1970年の今村監督の『にっぽん戦後史・マダムおんぼろ生活』には助監督としてつき、その後も1981年に映画化された『ええじゃないか』の資料調べをするなど、3年ほど今村プロに在籍。しかし今村プロが開店休業状態のため仕事がなく、他の独立プロで仕事をしたいと今村に申し出。日活の臨時雇いの契約助監督の仕事を、あくまで出向だぞと釘を刺されながら今村から紹介され、1971年に日活契約助監督となる。25歳のこの年、国映の専務から声をかけられ、外国人ポルノ女優を使って洋ピンもどき『センチメンタル・ジャーニー』を作ったが、9割方撮り終えたところで頓挫した。 当時はダイニチ末期と日活ロマンポルノ転換の端境期にあたり、小沢啓一、藤田敏八、西村昭五郎、神代辰巳らの作品に付く傍ら、『濡れた荒野を走れ』、『青春の蹉跌』、『宵待草』、テレビ『悪魔のようなあいつ』などのシナリオを書き注目された。「ポルノの脚本なんか書いたら他から仕事が来なくなるぞ」といわれ、ロマンポルノ初期には一線級のライターは殆ど脚本を書かなかったから、長谷川が脚本を書くようになった。脚本料は1本15万円。テレビ『悪魔のようなあいつ』は1本25万円。長谷川は日本映画のプログラムピクチャーシステム体験(大手映画会社で助監督経験)を持つ最後の世代となる。神代辰巳が監督した1974年の『青春の蹉跌』では脚本のみならず、ラストシーンとなるアメフトシーンの撮影を担当。 当時の日活は社員助監督がみんな監督になって、ヤケになっていた時期でもあり、「ゴジなんかにも一本撮らせてみるか」と、『卓のチョンチョン』というロマンポルノと『燃えるナナハン』という一般映画の監督をする話が2度あったが、正社員の社員助監督ではなく契約助監督だったことから、いずれも労働組合の反対で流れる。『燃えるナナハン』は、藤田敏八監督の『妹』の併映作の予定だった。政治に関わらないノンポリだったにもかかわらず、日活撮影所を仕切る日本共産党系労働組合からトロツキスト呼ばわりされる形で撮影所を追い出され、日活に見切りをつけ、1975年よりフリーとなる。同年1月には林美雄の企画による、渡哲也、菅原文太、原田芳雄ら映画俳優のコンサート「歌う銀幕スター夢の狂演」を演出。当時は外部の作品に契約のまま一本だけ付くということはよくあったが、『青春の殺人者』を撮る際、日活の助監督連中に声をかけたら「長谷川組についたら、日活は再契約はしない」と当時の撮影所長・黒澤満から脅しをかけられた。
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助監督時代
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1936年、どこかで就職しなければならないと思っていた黒澤は、たまたま新聞記事で見たP.C.L.映画製作所(翌年に東宝に合併)の助監督募集に応募した。最初の試験は「日本映画の根本的欠陥を例示し具体的にその矯正方法を述べよ」という小論文で、黒澤は「根本的欠陥は矯正しようがない」と回答し、それで試験を通過して最終面接まで残った。同社は原則として大学卒を採用するつもりだったが、黒澤の絵や文学に対する理解と才気に注目した山本嘉次郎の推薦により、学歴は旧制中学だけながら例外として合格となり、同年4月に入社した。助監督入社の同期には関川秀雄と丸山誠治がいた。最初の仕事は矢倉茂雄監督の『処女花園』のサード助監督だったが、この作品1本で仕事が嫌になり、退社を考えるも同僚の説得で思いとどまった。 その次に参加した『エノケンの千万長者』(1936年)から山本のサード助監督を務めた。山本組での仕事は楽しく充実したものであり、黒澤は映画監督こそが自分のやりたい仕事だと決心した。山本組の助監督仲間には谷口千吉と本多猪四郎がおり、黒澤は2人の家に居候することもあった。1937年に山本組の製作主任をしていた谷口が本社異動になり、黒澤が新たに山本組の製作主任についた。助監督育成に力を入れる山本の下で、黒澤は脚本執筆からフィルム編集、エキストラ、ロケーションの会計までも担当し、映画作りで大切なことを学んだ。面倒見のよい山本は自分の作品を犠牲にして、黒澤たちB班が撮影したフィルムを採用し、上映された完成作品を見ながらアドバイスをした。黒澤はそんな山本を「最良の師」と仰いだ。 山本監督の『馬』(1941年)ではB班監督と編集を務めた。黒澤は他の仕事で忙しい山本から演出のほとんどを任され、監督昇進への踏み台とした。この『馬』の東北地方でのロケーション撮影を通して、黒澤は主演の高峰秀子との間に恋が芽生えた。しかし、『馬』が公開されたあとに2人の結婚話が新聞沙汰になると、会社側は将来を嘱望された助監督とスターになりかけていた女優の恋を放ってはおけず、高峰の養母が強く反対していたこともあり、山本が破断役となり、恋は不実に終わった。 黒澤は助監督生活を送りながら、山本の「監督になるにはシナリオを書け」という助言に従い脚本を執筆した。初めてその才能が認められたのが『達磨寺のドイツ人』(1941年)で、山本の推挙で映画雑誌に掲載されることになったが、記者が受け取った原稿をなくし、黒澤は3日ほど徹夜してもう一度書き直した。この作品はドイツ人建築家ブルーノ・タウトの評伝を元にして、タウトと寄寓先の村の人たちとの交流を描き、伊丹万作に「特に視覚的に鮮明の印象を与えることを注目すべきである」と評価された。『馬』以降は実質的に助監督の仕事はしなくなり、脚本執筆に集中した。1942年に執筆した『静かなり』は情報局国民映画脚本募集で情報局賞を受賞し、『雪』は日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位に入賞した。
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