助監督・伊能実から監督・稲尾実へ
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1943年(昭和18年)4月16日、茨城県水戸市に生まれる。 1959年(昭和34年)4月、茨城県立水戸第一高等学校に進学、1962年(昭和37年)3月に同校を卒業、翌1963年(昭和38年)4月に日本大学藝術学部映画学科に進学した。同期にのちに映画監督・撮影技師になる久我剛(1944年 - )こと斎藤雅則がいた。在学中の1965年(昭和40年)、新藤孝衛監督の『雪の涯て』に助監督として参加、同作は同年5月に公開された。1967年(昭和42年)3月に同学を卒業する。卒業後も引き続き、独立系成人映画の助監督を続け、渡辺護(1931年 - 2013年)、山本晋也(1939年 - )、向井寛(1937年 - 2008年)ら、独立系成人映画第一世代の監督に師事した。満27歳を迎える1970年(昭和45年)には、佐々木元監督の『昭和色豪伝 浮気のテクニック』、渡辺護監督の『おんな地獄唄 尺八弁天』、同じく『(秘)湯の町 夜のひとで』でチーフ助監督あるいは製作主任を務めた記録が残っている。渡辺護の回想によれば、自作『男ごろし 極悪弁天』を映画館に見に行ったところ、向井と稲尾がおり、稲尾は場内で拍手するほど同作に感動し、続篇の『おんな地獄唄 尺八弁天』の助監督を志願したのだという。久保新二によれば、稲尾は、清水世津、渚マリが主演した作品を初監督し、完成もしたが、公開されなかったものがあるという。 稲尾がチーフ助監督として師事していた渡辺護は、当時関東映配(のちの大東映画、社長・星光一郎)を中心に作品を発表しており、1971年(昭和46年)、稲尾は、渡辺護のわたなべプロダクションが製作した『色くらべ 色布団』(主演高見由紀)で監督に昇進、同作は5月に公開された。このとき「稲尾 実」とクレジットされ、以降、定着する。同年後半には、関東映配は大東映画と改称するが、稲尾は師の渡辺同様、『セックス・ゲリラ』、『小股切れ味 罠のある性』、『舌と肌と肌』を同社で監督した。この時代の作風として、小田克也は、群馬県を中心とした「地方ロケによるローカル・カラーのナンセンス物」を得意とし、イタリア式コメディ的なオムニバス形式の「艶笑小咄」として、『性愛』(1973年)、『激情のうめき』(1974年)、『にっぽんエロばなし』(主演小杉じゅん、1975年)を挙げている。「サディスティックな残酷性」を回避し、「八木節などの民謡、わらべ唄」的なトーンが画面に表現される作風であったという。当時の外見は大島渚に似ており、ロケーション撮影時にはよく間違えられたという。 1975年(昭和50年)6月に新東宝興業(現在の新東宝映画)が製作・配給した山本晋也監督の『痴漢電車』がヒットし、同年11月には同監督の『痴漢地下鉄』が製作、公開された。これらは、先行する山本晋也の「痴漢シリーズ」として製作された作品であったが、新東宝興業は、稲尾を起用し、同年8月に『痴漢寝台列車』、翌1976年(昭和51年)5月に『痴漢満員電車』を製作、1978年(昭和53年)1月に『痴漢通勤電車』、同年5月に『痴漢各駅停車 おっさん何するんや』、同年8月に『痴漢最終電車』、同年12月に『痴漢快速電車』、1979年(昭和54年)6月に『痴漢電車環状線』、さらには同年7月に『新痴漢地下鉄』を発表、山本晋也(『痴漢地下鉄』)を継承する意思を示し、同年9月に『痴漢電車 インベーダー(秘)大作戦』を発表、このようにして新たに「痴漢電車シリーズ」を創設した。稲尾は、1980年代初頭の滝田洋二郎とともに同シリーズを継承、「痴漢電車シリーズ」は同社の看板番組となった。 1981年(昭和56年)10月に公開された『異常ななぶり』(主演青木三枝子)は、松竹の関係会社である東活(代表・八木脩)が製作した作品であり、以降、同社が製作した作品においては、「荻西 太郎」とクレジットされる。『日本映画監督全集』によれば、この時代は杉並区西荻北に居を構えていた。
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