44歳で経営者から映画俳優に転向
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「九重京司」の記事における「44歳で経営者から映画俳優に転向」の解説
1952年(昭和27年)には明治座を退き、文筆活動を行っていたが、1954年(昭和29年)、新国劇の辰巳柳太郎に推薦され、同年に製作再開した日活が製作し、辰巳が主演した『平手造酒』(監督滝沢英輔)に出演、同作は同年10月19日に公開され、これが映画俳優としてのデビュー作である。九重はすでに満44歳になっていた。同作公開後、兵庫県宝塚市の宝塚映画製作所に入社、同年12月8日・15日に公開された志村敏夫(1914年 - 1980年)の監督作『照る日くもる日 前後篇』に役を得て、以降、同撮影所で志村敏夫作品を中心に出演する。1956年(昭和31年)、志村が新東宝に移籍したのを機に九重も移籍、同年8月22日に公開された志村監督の『君ひとすじに 完結篇』に出演する。新東宝では、志村のもとで脚本を執筆、村山俊郎と共同執筆した『新妻鏡』、北村秀敏とともに執筆した『関八州大利根の対決』がそれぞれ同年9月26日、翌1957年(昭和32年)1月27日に公開されている。脚本は本名でクレジットされたが、出演もした『関八州大利根の対決』では、役者としては九重の名でクレジットされた。1961年(昭和36年)8月31日の新東宝の倒産まで、数多くの同社の作品に脇役俳優として出演した。 新東宝の倒産後は、配給部門を分社化して設立された大宝が配給した『黒と赤の花びら』(監督柴田吉太郎)に出演、同作は翌1962年1月14日に公開された。新東宝の社長であった大蔵貢が経営する大蔵映画が、製作を開始すると、第1作の超大作『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(監督小森白、1962年4月7日公開)、同作の前に公開され、いわゆる「ピンク映画第1号」と呼ばれる『肉体の市場(英語版)』(監督小林悟、同年2月27日公開)に出演、以降、同社の作品を中心に数多くの成人映画に出演した。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子、橘桂子、城山路子(光岡早苗と同一人物)、内田高子、香取環、新高恵子、松井康子、西朱実、朝日陽子、火鳥こずえ、華村明子、森美沙、湯川美沙、光岡早苗、路加奈子、有川二郎、里見孝二、川部修詩、佐伯秀男の名を挙げているが、九重の名は挙げられていない。しかしながら九重は、『肉体の市場』や、それに先行する新東宝時代の『続・性と人間』(監督木元健太・小林悟、1961年1月3日公開)、あるいはそれにつづく『不完全結婚』(監督木元健太・小林悟、1962年5月1日公開)といった成人映画にすら出演しており、黎明期の成人映画界を支えた俳優であるといえる。 神奈川県藤沢市片瀬に居を構え、1970年代以降は、映画出演の傍ら「性神研究家」として研究にいそしみ、文筆活動を行い、講演も行った。1975年(昭和50年)2月から同年6月まで、『週刊文春』(文藝春秋)に「あるピンク男優の告白」として『テント虫一代』を連載する。1976年(昭和51年)10月16日には、「大宮先生」役で出演した日仏合作映画『愛のコリーダ』(監督大島渚)が日本でも公開された。同年、性神についての最初の単著『ふるさとの性神』を双葉社から上梓する。満69歳のときに出演し、1979年(昭和54年)6月に公開された『少女縄化粧』(監督渡辺護)が俳優としての遺作に当たる。日野繭子の父親役であった。同年8月から翌1980年(昭和55年)10月まで、『宝石』(光文社)に『艶談・女のまんげ鏡』を連載した。この年、九重は満70歳を迎えた。 1985年(昭和60年)7月2日、18時9分に心不全のため死去した。満75歳没。
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