脇役俳優として
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すでに大阪の帝国キネマ演芸長瀬撮影所に移籍していた曾根純三は、同年9月の同撮影所の火災による消失のため、同社の太秦撮影所(のちの東映京都撮影所)に移り、また翌1931年(昭和6年)、同社が改組して新興キネマになるとそのまま残留していたので、15歳になった同年9月に、曾根のいる同社へ移籍した。しかし同社でもまたその東京撮影所(のちの東映東京撮影所)でも、松尾に来る役は脇役であった。 1939年(昭和14年)5月、22歳のときにフリーランスとなり、独立プロダクションの作品に出演。1941年(昭和16年)の戦時統合による大映への合併があり、同年5月に東宝へ入社した。 第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に新東宝へ移籍したが、1951年(昭和26年)4月に東宝へ復帰、成瀬巳喜男監督の『めし』(1951年)や『流れる』(1956年)、本多猪四郎監督の『空の大怪獣ラドン』(1956年)や『大怪獣バラン』(1958年)で重要な役を演じた。42歳になった1959年(昭和34年)3月、ふたたびフリーランスとなり、福田純監督の『電送人間』(1960年)などに出演した。 1960年代以降は、テレビドラマに活躍の場を移した。 『初代杉作少年松尾文人 私と活動大写真』高瀬昌弘編(ワイズ出版、1998年7月)によると、1998年時点では療養中であったが、その後の消息は不明。
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