脇役女優として
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1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終了後、初めて出演した映画は、翌1946年(昭和21年)1月10日に公開された田中重雄監督の『幾山河』、主演作であった。同作は終戦後に映画配給を始めた大映が配給した作品であったが、本作をもって大映を退社した。以降、真山は3年のブランクを経て、1949年(昭和24年)3月1日に公開された、芸研プロダクション製作、クラタ・フミンド監督の『殿様ホテル』でふたたびスクリーンに登場した。真山は満32歳になっていた。1950年(昭和25年)10月28日に公開された、大映時代の『結婚命令』(1943年)以来7年ぶりの顔合わせの沼波功雄監督のオムニバス映画『東京十夜』では、おなじ日活多摩川撮影所出身であり、かつて新興キネマ東京撮影所での『脱線令嬢』(監督曽根千晴、1937年)でフィアンセ役で共演して以来、『たのしき今宵』(監督伊奈精一、1938年)、『乙女ごころ』(同)、『結婚真剣勝負』(監督沼波功雄、同年)等、共演作も多かった立松晃と、ふたたび共演している。この時期は、伊賀山正徳、原千秋といった、かつての新興キネマ東京撮影所(当時の太泉スタジオ)と関係のあった監督と、少ない仕事をしていたが、『東京十夜』が最後の主演作となった。 1953年(昭和28年)12月28日に公開された、斎藤寅次郎監督の『初笑い寛永御前試合』以降は、新東宝を中心に脇役俳優として、母親役等を大いにこなした。1955年(昭和30年)からは新東宝専属となり、1957年(昭和32年)からはテレビ映画にも進出した。1958年(昭和33年)1月26日に公開された石井輝男監督の『天城心中 天国に結ぶ恋』では、前年の暮れに起きたばかりの「天城山心中」を扱う物語のなかで、嵯峨浩にあたる「王氏夫人・治子」の役を演じた。新東宝での出演は、1960年(昭和35年)1月23日に公開された、小林悟監督の『危険な誘惑』が最後になり、同年退社した。 『芸能人物事典 明治大正昭和』には、1963年(昭和38年)4月14日に公開された、近江俊郎監督の『その結婚異議あり』に出演後、引退したように記されているが、同年夏から秋にかけて、テレビ映画『愛より愛へ』に出演している。確かにテレビ出演もそれが最後になり、1964年(昭和39年)以降は、当時盛んであった成人映画、いわゆるピンク映画に、母親役等で出演をするようになった。三田浩が代表取締役を務める東京企画製作の作品を中心に出演した。満52歳になり、1968年(昭和43年)10月に公開された沢賢介監督の成人映画『夜の寄生虫』(『寄生虫』)に出演して以降は、活動の記録がみられなくなった。同作以降に引退したものとされ、以降の消息も不明である。存命であれば、満105歳の高齢である。
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