映画と写真の時代
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1926年(大正15年)初頭に、高松豊次郎が主宰するタカマツ・アズマプロダクションに入社、多く時代劇に出演する。同年10月3日に公開された高松操監督の『黄門漫遊記』では、当時満29歳にして水戸黄門を演じて主演した。映画界に進出していく一方で、同年、河原は、徳永直の門下として、秋田雨雀、川添利基、柳瀬正夢、佐々木孝丸らとともに新劇の劇団「先駆座」を組織している。 翌1927年(昭和2年)1月には、松竹蒲田撮影所に移籍した。同年10月14日に公開された小津安二郎の監督デビュー作『懺悔の刃』にも出演している。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』によれば、1933年(昭和8年)、満36歳当時、身長は5尺8寸つまり約175.8センチメートル、体重17貫つまり約63.8キログラムであったという。同書にはまた「ベスト單玉撮影引伸天下一品」と記されているが、これは、コダックが1912年(大正元年)に発売したヴェスト・ポケット・コダックの撮影・現像・引伸についての河原の技術への評価であり、河原は実際に写真の専門家として知られ、1936年(昭和11年)には『ヴェス単作画の実技』(光大社)という技術書を上梓している。当時、同撮影所では、五所平之助や小津安二郎らが映画と同じ35mmフィルムを使用するライカが流行しており、ヴェス単は小津も中学生時代に最初に触れた写真機である。同年1月15日、同撮影所は、神奈川県鎌倉郡大船町(現在の同県鎌倉市大船)に全機能を移転したが、このとき河原も、松竹大船撮影所に異動になった。第二次世界大戦のさなかも、河原は同撮影所に所属し、映画出演を続けた。 戦後は、松竹を離れ、東宝が製作・配給した渡辺邦男監督による1946年(昭和21年)12月31日公開の正月映画『愛の宣言』への出演を経て、満50歳を迎える翌年1947年(昭和22年)には、大映東京撮影所に入社した。以来、重鎮役・老け役の脇役俳優として多くの大映東京作品に出演した。1959年3月4日 - 1960年9月28日の時期に放映された『少年ジエット』は、大映テレビ室が製作した連続テレビ映画で、河原はこれにレギュラー出演している。 赤穂出身の縁から、小林楓村が創刊した『播磨』(1946年 - 1969年)の表紙に毎号、版画を制作して寄稿した。1964年(昭和39年)には、かつての文学仲間である木下謙吉が上梓した『歌集 うつし絵』に『跋』を書き、口絵に版画を制作して掲載している。満71歳となった1968年(昭和43年)9月21日に公開された、同撮影所製作、弓削太郎監督の『高校生芸者』に出演した以降の出演歴が見当たらない。以後の消息は不明とされていたが、『群馬県百科事典』にて、1974年(昭和49年)1月に東京都で死去したという旨が記されている。したがって、もし生年が上記通りであれば満76歳没となる。
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