映画と写真の時代とは? わかりやすく解説

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映画と写真の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 15:03 UTC 版)

河原侃二」の記事における「映画と写真の時代」の解説

1926年大正15年初頭に、高松豊次郎主宰するタカマツ・アズマプロダクション入社多く時代劇出演する同年10月3日公開され高松操監督の『黄門漫遊記』では、当時29歳にして水戸黄門演じて主演した映画界進出していく一方で同年河原は、徳永直門下として、秋田雨雀川添利基、柳瀬正夢佐々木孝丸とともに新劇劇団先駆座」を組織している。 翌1927年昭和2年1月には、松竹蒲田撮影所移籍した同年10月14日公開され小津安二郎監督デビュー作『懺悔の刃』にも出演している。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑によれば1933年昭和8年)、満36歳当時身長は5尺8寸つまり約175.8センチメートル体重17貫つまり約63.8キログラムであったという。同書にはまた「ベスト單玉撮影引伸天下一品」と記されているが、これは、コダック1912年大正元年)に発売したヴェスト・ポケット・コダック撮影現像・引伸についての河原技術への評価であり、河原実際に写真専門家として知られ1936年昭和11年)には『ヴェス単作画の実技』(光大社)という技術書を上梓している。当時、同撮影所では、五所平之助小津安二郎らが映画と同じ35mmフィルム使用するライカ流行しており、ヴェス単は小津中学生時代最初に触れた写真機である。同年1月15日、同撮影所は、神奈川県鎌倉郡大船町現在の同県鎌倉市大船)に全機能を移転したが、このとき河原も、松竹大船撮影所異動になった第二次世界大戦のさなかも、河原は同撮影所所属し映画出演続けた戦後は、松竹離れ東宝製作・配給した渡辺邦男監督による1946年昭和21年12月31日公開正月映画『愛の宣言』への出演経て、満50歳を迎え翌年1947年昭和22年)には、大映東京撮影所入社した以来重鎮役・老け役脇役俳優として多く大映東京作品出演した1959年3月4日 - 1960年9月28日時期放映された『少年ジエット』は、大映テレビ室製作した連続テレビ映画で、河原はこれにレギュラー出演している。 赤穂出身の縁から、小林創刊した『播磨』(1946年 - 1969年)の表紙毎号版画制作して寄稿した1964年昭和39年)には、かつての文学仲間である木下謙吉が上梓した『歌集 うつし絵』に『跋』を書き口絵版画制作して掲載している。満71歳となった1968年昭和43年9月21日公開された、同撮影所製作、弓削太郎監督の『高校生芸者』に出演した以降出演歴見当たらない以後消息不明とされていたが、『群馬県百科事典』にて、1974年昭和49年1月東京都死去したという旨が記されている。したがって、もし生年上記通りであれば76歳没となる。

※この「映画と写真の時代」の解説は、「河原侃二」の解説の一部です。
「映画と写真の時代」を含む「河原侃二」の記事については、「河原侃二」の概要を参照ください。

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