ペルー革命(1968年-1980年)
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「ペルーの歴史」の記事における「ペルー革命(1968年-1980年)」の解説
かかる状況下で1968年10月3日、フアン・ベラスコ・アルバラード将軍による軍事クーデターによりベラウンデは追放され、軍事革命政権の成立が宣言された。軍事革命政権は10月9日にスキャンダルとなっていたタララ協定の無効化を宣言し、IPCを国有化した。この軍事革命は完全に文民の参加を廃した点に特色があり、立法府の役割は全面的に軍に移行され、軍事政権に任命された若手の法曹によって腐敗した司法の改革がなされた。ペルー革命の始まりだった。 こうしてクーデターを起こしたベラスコ将軍は、これまでの政権とは180度立場を変えて反米と自主独立を旗印に「ペルー革命」を推進することを約束し、「資本主義でもなく、また共産主義でもない人間的な社会主義」を目指してユーゴスラビアを一つのモデルに新体制の模索が進んだ。外交面ではそれまでアメリカ合衆国一辺倒だった外交が、第三世界を中心に多角化され、1969年のアンデス共同市場の形成を皮切りに、チリのアジェンデ人民連合政権といったラテンアメリカ域内の左派政権との関係改善が行われ、同時期にチリで似たような改革を進めていたアジェンデ大統領は、ベラスコを「同志」と呼んだ。1969年2月にはソ連と、1971年に中華人民共和国と、1972年にはキューバと国交を結び、1973年からは非同盟運動にも参加した。国防組織の対米依存を減らすために兵器輸入を中心にソ連との関係は特に深まり、日本やドイツとの交流が深まるのもこの頃である。ベラスコ体制は、アンデス諸国の革新的軍事政権や、パナマのオマール・トリホス政権にモデルを提示した。 この革命政権において農地改革は大きな柱の一つであり、それまでの農地改革とは比較にならないような徹底した改革が推進された。貧しい生まれだったベラスコ将軍はかつてトゥパク・アマルー2世が掲げた標語を再び掲げ、コスタの大農園は次々に解体されて多くの土地が小作人に分与され、「44家族」と呼ばれていたペルーの地主寡頭支配層はここに解体された。また、アメリカ合衆国からの経済独立を目指した企業の国有化政策により輸入代替工業化が更に進められた。当時リマのスラムはシエラからの人口移動で人口700万人の巨大都市に大拡大していたが、革命政権はスラムをプエブロ・ホーベン(新しい街)と呼び、住民の組織化が進んだ。また、将軍は先住民をカンペシーノ(農民)と呼ぶようにし、以後政府の文書で侮蔑的な響きのあったインディオという言葉が使われることはなくなった。 しかし、1973年にベラスコ将軍が病に倒れ、片足を切断することになると政権内での意思疎通の不和が目立つようになり、さらに同年の第一次オイル・ショックで経済が大打撃を受け、再び外国資本の導入を検討せざるを得ない状況になると各地で暴動や社会的混乱が噴出した。将軍の任期の最後の年にはケチュア語が公用語となったが、軍部主導で国民の広範な支持を得られなかった革命は、ポプリスモ的な分配による対外債務の増加、軍部とAPRA系の労組との衝突や、人民の組織化の失敗、さらには1973年9月11日のチリ・クーデターによって成立したアウグスト・ピノチェト政権が革命政権を敵視してチリとの戦争が現実味を帯びたことをはじめとして、ボリビア、アルゼンチン、ブラジルといった周辺国の官僚主義的権威主義体制との軋轢などもある中で、最終的に1975年のベラスコ将軍の失脚をもって失敗が明らかになった。 1975年8月23日、軍部内右派と左派の妥協により、軍内中道派(制度派)のモラレス・ベルムデスが大統領となった。モラレスは「革命の第二段階」を称していたが、1976年5月には事実上のIMF管理下に置かれるなど改革からの後退が続き、1977年2月にはインカ計画に続いてトゥパク・アマルー計画が発表されたが、この計画の内容は革命の凍結を図るというものだった。国民の反軍感情の高まりの中、軍は名誉ある撤退を掲げて政権を文民に移行するために1978年6月に制憲議会が開かれ、軍部とAPRAの歴史的な和解の中で、非識字層に投票権を認めた1979年憲法が制定された。1980年には選挙によって民政移管し、再び人民行動党のフェルナンド・ベラウンデ・テリーが大統領に就任した。
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