自由選挙による社会主義政権
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「サルバドール・アジェンデ」の記事における「自由選挙による社会主義政権」の解説
しかし、この暗殺は完全に裏目に出ることとなった。シュナイダー暗殺に反発してキリスト教民主党がアジェンデ支持に回ったことにより、153対35の大差でアジェンデが大統領に選出され、世界史上初の自由選挙による社会主義政権が成立した。 就任後は人民連合の綱領に従い、重要な産業の国営化と農地改革を進めた。外交面では広く世界に友好国を探し、キューバやソ連との友好も促進した。ただしそれはあくまでも対米依存から脱するためであり、共産圏と特別な協力関係を結ぶことは考えておらず、ソ連の側もチリと親密な関係を結ぶことは考えておらず、そのことを米国政府も認識していた。同時期に隣国ペルーで「ペルー革命」を推進していたフアン・ベラスコ・アルバラード政権との友好関係も確立され、アジェンデはベラスコを同志として賞賛した。 ただ、国会では、人民連合の与党は、キリスト教民主党、国民党による野党連合に数でおよばず、法案の不成立など、混迷を深めた。 生産手段の国有化に対し、富裕層が私有財産返還訴訟を行い、返還の判決が多数でたため、人民連合は司法非難キャンペーンを展開、国家機能は混乱していった。 決選投票前にアジェンデ就任阻止を狙って各種工作を仕掛けた米国のニクソン政権は、アジェンデ就任後も彼の政権を打倒するための軍事クーデターを画策し続けた。チリの経済を混乱させ、チリ国民に絶望感を抱かせ、それを口実に軍が動くよう仕向けるという工作を推進した。 まず最初に手がけたのが金融封鎖だった。米国の政府機関による対チリ融資を禁じ、米国の銀行および国際金融機関に対し、チリに融資を行わないよう圧力をかけた。チリの輸出収入の80%を占めていた銅の輸出と生産を妨害する工作も行った。さらに、金融封鎖に起因する物不足を口実に、「からなべ」デモなるものを富裕層の婦人連に実行させた(1971年12月)。これは全てのチリ人女性がアジェンデに反発しているように見せかけることを狙った工作で、ファシスト組織の協力を得て実行された。また、トラック所有者の協会に資金を提供し、トラック所有者たちに長期にわたるストライキを敢行させた(1972年10月と1973年7月)。このストライキはチリの流通を麻痺させ、チリ経済に大きな打撃を与えた。さらには、中間層から支持を得ていたチリ最大の政党であるキリスト教民主党に秘密資金を注入し、アジェンデ就任時に彼を支持していた同党をクーデター支持に転向させることに成功した。
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