ペルー銀山事件
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1889年〈明治22年〉、山口慎は旧知の大倉喜八郎の依頼で、札幌麦酒工場へ3年ほどドイツ人技師の監督として赴く予定であったが、直前に高橋是清のペルー行きを知り、これに同行することを自ら望んで参加した。この事業は国家発展のためにと、政財界の要職にある20名ほどが株主となり設立された日秘鉱業会社によるペルー銀山投資である。是清は農商務省の先輩である前田正名に請われ、出資者および代表として農商務省特許局を非職となっていくものだった。11月に先発した是清に続き、慎は庶務課長として17名の抗夫を統率し12月3日横浜から出帆する。ペルーまでは船を乗り継ぎ2ヵ月近くかかった。目的のカラワクラ銀山は、標高5,500m近くのアンデス山中にあり、みな酷いと高山病と寒さに苦しむ。翌年2月風雪の中、慎と是清がアンデスの尾根道を馬で進んだ際には谷底へ向かって転落し、九死に一生を得る経験もした。しかし3月26日、この銀山は掘りつくされた廃坑だと判明する。事前調査をした田島晴雄技師の杜撰さと日本からの出資が欲しいペルー側の思惑によりまんまと騙されたのであった。 ここからが新たな試練となる。廃坑と判明した以上は日本側の損害を最小限にするための方策を考えねばならない。高橋是清はペルー側に、「当銀山の鉱石が低品位である以上、設備投資を増額して大規模にすれば事業の可能性あり」として一時日本へ資金集めに帰国すると告げ、その実は今までの投資分を放棄して損切りすると決断した。ペルー側に対しては、日本での資金集めに失敗したときにはこの計画はご破算となるが、日本の投資分をすべて放棄するという条件をのませた。事業継続のポーズを維持するためには抗夫たちを鉱山に残さねばならない。この難しい状況で後を託された慎は経費を倹約しながら、荒れる抗夫や技師たちをよく統制し、是清より3か月遅れてペルーより帰国した。ところが、日秘鉱業会社はすでに解散していたのである。会社は抗夫たちへ賃金も払わず、高橋是清と山口慎にすべてを押し付けた。二人は自分の金を抗夫に配り慰撫し、互いに我慢の解散をした。田島技師は詐欺罪で訴追され、3年半の懲役刑の判決が下った。このペルー銀山開発事業の失敗は大きなバッシングを受け、世間では「ペルーで一山当てようとして騙された事件」と見られ、慎の家族でさえ、そのような理解であった。
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