ペルー解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 06:59 UTC 版)
サン・マルティンが引退したためペルーはボリバルの大コロンビアに援軍を依頼し、1823年にボリバルはまずスクレを先遣隊として派遣したのち、1823年9月にはボリバル自身がペルーへと移動した。ボリバル軍はリマに進出し、リマの東山地に陣地を築いていたスペイン軍と対峙した。ボリバルは1824年2月8日にペルーの第8代大統領に選出され、大コロンビアとペルーの大統領を兼任することとなった。ピチンチャの戦いで活躍したスクレを総司令官(実質的には参謀長)に据えて、攻略を開始した。ボリバルは病に倒れ戦線を離脱したが、スクレが1824年12月9日、アヤクーチョの戦い(英語版)で大勝し、ペルー副王のホセ・デ・ラ・セルナ(英語版)を降伏させた。 ペルー解放によって南アメリカの独立戦争の大勢は決したが、依然としてアルト・ペルー(高地ペルー)はスペイン軍に支配されていた。しかしペルーから進軍したスクレが1825年4月に解放し、ラテン・アメリカ大陸部での解放戦争はここに終結した。こうして植民地時代には同一の行政区画だったペルー、アルゼンチンとの連合を望まなかったアルト・ペルー支配層と、ボリバルらの思惑が一致したためアルト・ペルー共和国が誕生した。1825年8月6日、アルト・ペルー共和国議会は独立におけるボリバルとスクレの功績を讃え、独立に際して国名をボリビア、首都名をスクレ(旧チャルカス)と定めた。1825年8月12日、ボリバルは新生ボリビア共和国の初代大統領に選出され、大コロンビア・ペルー・ボリビアの3か国の元首を兼任することとなったが、ボリビアにおけるボリバルの大統領位は名誉職的なものにすぎず、同年の12月29日には大統領を辞任して後任をスクレに任せた。
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