ペルー海軍時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 16:15 UTC 版)
「ワスカル (装甲艦)」の記事における「ペルー海軍時代」の解説
チンチャ諸島戦争末期の1866年1月に装甲フリゲート「インデペンデンシア」などとともにイギリスを出発し、途中でスペイン側の船2隻を拿捕しながら、同年6月に同盟国のチリに到着した。回航後、停戦まで大きな活躍の機会はなかった。1868年2月にペルーへと移動し、新艦長としてミゲル・グラウが着任した。彼は1876年までの長期間に渡ってその地位にあり、この間の経験が後の南米の太平洋戦争で役立つことになった。 1877年5月に起きた反乱事件で、「ワスカル」は反乱軍に占拠された。「ワスカル」は反乱軍将兵の操縦で、ペルー政府軍艦隊及びイギリス艦隊と交戦した(パコーチャの海戦)。この際にイギリス艦隊のフリゲート「シャー」から、史上初の魚雷攻撃を受けたが、命中は免れた。約1ヶ月後にワスカルは政府軍に投降し、艦隊へと復帰した。 ペルー・ボリビア連合軍とチリの間の太平洋戦争では、ミゲル・グラウ提督の指揮の下でペルー海軍の主力艦として活躍し、1879年5月21日のイキケの海戦で衝角によりチリ海軍コルベット「エスメラルダ」を撃沈した。さらに、通商破壊を行って成果を挙げた。しかし、同年10月8日に起きたアンガモスの海戦でチリ艦隊に破れ、鹵獲された。
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