ペルー銀山事件以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 01:08 UTC 版)
慎の不在中、清水谷商会は使用人の使い込みや放漫経営により不渡りを出しており、打つ手もなく倒産、慎はすべてを失った。失意の中、ペルーでの経理報告、田島を告訴するために必要な証拠書類準備などの残務処理を済ませ、ペルーで世話になった人々へ礼状を書き送った。そして心機一転、明治23年10月に北海道へ渡った。札幌でアメリカからの農機具の輸入販売店を手掛け、順調に見えたが火事で全焼。神戸の義弟・友常穀三郎を頼ってサミュエル商会の販売係をするも自らの志士気質に合わないと辞める。明治28年には当時日本銀行馬関支店長であった是清を訪ね借金し、神戸の兵庫松屋町で鰻屋「東京庵」を始めるが失敗する。そして神戸桟橋会社の支配人を務めた後に、是清の推薦により安田善次郎の安田製釘所、北海道製麻会社を経て安田銀行根室支店長に抜擢される。 しかし1912年〈明治45年〉、旧藩主・松平家から財政困難に陥った家政整理を懇願され、情誼上断れぬと銀行を辞職、東京の松平邸に移る。留学に随行した松平忠厚の不帰国の件に対する責任感も慎の中に生涯残っていたであろう。自身の蓄えもつぎ込んで立て直しにあたったが、まもなく病いに倒れ、1913年(大正2年)4月28日、十二指腸潰瘍で没した。満67歳。葬儀委員長は大蔵大臣・高橋是清であった。是清は晩年に上塚司に口述した自伝に、「今日でも、アア山口がいたらばと折にふれて思い浮かぶ。立派な人間はなかなか世に少ないものだ。」と残している。墓所は青山霊園立山墓地にある。
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